豆腐でも食べるくらい日常的に「独立国家でもつくらんとだめか」とつぶやいている割に、未読だった坂口恭平『独立国家のつくりかた』を読んだ。恥ずかしながら今頃、しかも下北沢のヴィレッジヴァンガードなんていう、微妙に似合ってるから恥ずかしさ倍増な本屋で買ったものだ。
最初から読み進めていく中で、一番強く感じたのは、自分と同じことを考えている人がいるのか、という驚きだった。そしてその考えを突き詰めると路上生活者に行きつくことにも驚く。
私は無音への恐怖(都市にいると、その住人の大半はこの症状があるのではないかと思う、症名はついていないから意識されていないだけで)がない代わりに騒音から逃げ場がないことを恐れるように、何もないところや高いところは全く怖くない一方で、極端に狭くごちゃごちゃした場所が苦手だ。それで、初めての一人暮らしで京都に住んだときには、狭い部屋にも、人と車と自転車がすれ違うのもやっとな道にみっちりとせり出した家々にも、なかなかのショックを受けたものである。
ただ、六畳のワンルームのあるアパートを出ると高野川があった。私は、下宿を決めた時からこの川を自分の庭とすることを決めた。実際にちょくちょく河原でランチをしたり、本を読んだり、大事なメールを打ったりしていた。快適な季節には蚊がいるので昼寝は出来なかったけれど。他にも、喫茶店を書斎とする財力はなかったので、大学図書館を書斎にし、部室と寺とバイト先の飲食店を修行のための道場とした。そうして、世間的には私が住んでいるのは六畳+キッチンとバストイレのアパートであっても、実質的に私の棲家は京都中に広がっていることになった。
こういう見方を、坂口恭平は「レイヤー思考」という名で呼ぶ。フォトショップとかの「レイヤー」をいじったことのある人なら膝を打つと思うけれど、そうでない人には難しいかな?地図の上には法律上の所有者や、常識的なモノの名前が書いてあるとして、そこを全部覆ってしまう透明のフィルムをかぶせて、「違う見方」で見た所有者名や名前を書き込むのだ。鴨川河畔は「晴れてる時に美味しいパンを食べるカフェ」になり、「ごみ」と言われているものが「資材」になるかもしれない。この「レイヤー」が、「見ていても見えていないものを見るための色眼鏡」だ。
そもそも物を所有して維持しようとするほど、色々な場所からさらにお金を課して自由を奪おうとするような力が働き、結果的に法律や世間やらの見方の内部に閉じ込められたままになる。たとい1~2年でも海外で暮らそうとすると、何の罰ゲームかと思うくらい手続きが面倒だし、今まで所有してきたものの処理にめちゃくちゃ困る。結果的に、別の「レイヤー」を得ることが出来て、なんでココ、こんなにお金かかっているのに持っていたんだろう?とか思って色々と手放す機会にはなるのだけど。テレビとかね。
しばらくそんな無茶な移動もしないでいると、またモノが増えて、知らず知らずのうちに自分を縛っていることに気付く。例えば、車という物を持つと、ちょっと信じられないくらいお金がかかる。まあ、車があれば、私が深夜にちょっとふらっと遠出したくなったとして、ゆっくり休んだり家族とのんびりしていていいはずの人を誰一人巻き込むことなくふらっと出来るという意味ではこの上なく自由なので、その分のペナルティみたいなものだろうか。その点、自転車ならさらにペナルティが軽い(登録は必要だし、違法駐輪で撤去された時にうっかり確認を怠って盗難届を出したりすると京都府警が実家にまで電話をかけてくるが…)。ああ、まったく、人間が自由でいるって本当に難しい。多分それで、本来あるべき自由を取り戻すために、坂口は法律と向き合ってモバイルハウスを組立て、電力会社に、行政に紐づけされない、人間らしい生活をしようとしているのだろう。原発廃止の前に土地の私有の廃止、筋が通っている。
無論、細部にはかなりたくさん留保があって、例えば私は段ボールハウスの住人にならないためには、多少の不自由(労働とか)を耐え忍ぶ覚悟があるわと思う。露地草庵で生きていかれるのはやせ我慢を洗練に昇華させてしまった京都人でなければ(青磁やギヤマンで醸し出せる清涼感には限界があるもの)やさしく温かい風が吹き果物のたわわに実る南国人だけだ。北海道生まれにとっては家は外界の天候や音や光から守ってくれる頑丈で気密性の高いシェルターであってほしい、だったり。
本の後半の方は、坂口の仕事の進め方や仕事上の信念が至極ポジティヴに書かれていて、結局のところ、この人もまた「死なないためのアート」の実践者なんだろうと思った。「死なないためのアート」というのはこの文章→(自愛について(tanukinohirune))で書かれていることで、私は芸術に関わるということに関して今のところこれ以上に説得力のある理由を知らない(思わず当時フランスにいたのでフランス語に訳してみたりした)。いわゆる躁鬱を患っていて、でもひたすらに作品を見ることで強い自殺念慮と闘うという「公式」を持っている事がどれだけ強力なことか。
最初から読み進めていく中で、一番強く感じたのは、自分と同じことを考えている人がいるのか、という驚きだった。そしてその考えを突き詰めると路上生活者に行きつくことにも驚く。
私は無音への恐怖(都市にいると、その住人の大半はこの症状があるのではないかと思う、症名はついていないから意識されていないだけで)がない代わりに騒音から逃げ場がないことを恐れるように、何もないところや高いところは全く怖くない一方で、極端に狭くごちゃごちゃした場所が苦手だ。それで、初めての一人暮らしで京都に住んだときには、狭い部屋にも、人と車と自転車がすれ違うのもやっとな道にみっちりとせり出した家々にも、なかなかのショックを受けたものである。
ただ、六畳のワンルームのあるアパートを出ると高野川があった。私は、下宿を決めた時からこの川を自分の庭とすることを決めた。実際にちょくちょく河原でランチをしたり、本を読んだり、大事なメールを打ったりしていた。快適な季節には蚊がいるので昼寝は出来なかったけれど。他にも、喫茶店を書斎とする財力はなかったので、大学図書館を書斎にし、部室と寺とバイト先の飲食店を修行のための道場とした。そうして、世間的には私が住んでいるのは六畳+キッチンとバストイレのアパートであっても、実質的に私の棲家は京都中に広がっていることになった。
こういう見方を、坂口恭平は「レイヤー思考」という名で呼ぶ。フォトショップとかの「レイヤー」をいじったことのある人なら膝を打つと思うけれど、そうでない人には難しいかな?地図の上には法律上の所有者や、常識的なモノの名前が書いてあるとして、そこを全部覆ってしまう透明のフィルムをかぶせて、「違う見方」で見た所有者名や名前を書き込むのだ。鴨川河畔は「晴れてる時に美味しいパンを食べるカフェ」になり、「ごみ」と言われているものが「資材」になるかもしれない。この「レイヤー」が、「見ていても見えていないものを見るための色眼鏡」だ。
そもそも物を所有して維持しようとするほど、色々な場所からさらにお金を課して自由を奪おうとするような力が働き、結果的に法律や世間やらの見方の内部に閉じ込められたままになる。たとい1~2年でも海外で暮らそうとすると、何の罰ゲームかと思うくらい手続きが面倒だし、今まで所有してきたものの処理にめちゃくちゃ困る。結果的に、別の「レイヤー」を得ることが出来て、なんでココ、こんなにお金かかっているのに持っていたんだろう?とか思って色々と手放す機会にはなるのだけど。テレビとかね。
しばらくそんな無茶な移動もしないでいると、またモノが増えて、知らず知らずのうちに自分を縛っていることに気付く。例えば、車という物を持つと、ちょっと信じられないくらいお金がかかる。まあ、車があれば、私が深夜にちょっとふらっと遠出したくなったとして、ゆっくり休んだり家族とのんびりしていていいはずの人を誰一人巻き込むことなくふらっと出来るという意味ではこの上なく自由なので、その分のペナルティみたいなものだろうか。その点、自転車ならさらにペナルティが軽い(登録は必要だし、違法駐輪で撤去された時にうっかり確認を怠って盗難届を出したりすると京都府警が実家にまで電話をかけてくるが…)。ああ、まったく、人間が自由でいるって本当に難しい。多分それで、本来あるべき自由を取り戻すために、坂口は法律と向き合ってモバイルハウスを組立て、電力会社に、行政に紐づけされない、人間らしい生活をしようとしているのだろう。原発廃止の前に土地の私有の廃止、筋が通っている。
無論、細部にはかなりたくさん留保があって、例えば私は段ボールハウスの住人にならないためには、多少の不自由(労働とか)を耐え忍ぶ覚悟があるわと思う。露地草庵で生きていかれるのはやせ我慢を洗練に昇華させてしまった京都人でなければ(青磁やギヤマンで醸し出せる清涼感には限界があるもの)やさしく温かい風が吹き果物のたわわに実る南国人だけだ。北海道生まれにとっては家は外界の天候や音や光から守ってくれる頑丈で気密性の高いシェルターであってほしい、だったり。
本の後半の方は、坂口の仕事の進め方や仕事上の信念が至極ポジティヴに書かれていて、結局のところ、この人もまた「死なないためのアート」の実践者なんだろうと思った。「死なないためのアート」というのはこの文章→(自愛について(tanukinohirune))で書かれていることで、私は芸術に関わるということに関して今のところこれ以上に説得力のある理由を知らない(思わず当時フランスにいたのでフランス語に訳してみたりした)。いわゆる躁鬱を患っていて、でもひたすらに作品を見ることで強い自殺念慮と闘うという「公式」を持っている事がどれだけ強力なことか。