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2022/09/01

乗り物あつまれ

 2歳8か月現在の備忘として

乗り物一般:「タイヤあるやつ」

・電車

山陽本線普通:「黄色い電車」

新幹線諸々、桃太郎(貨物列車):その名称で

山の手線:「やまのせてん」

地下鉄丸ノ内線:「パパの赤い電車」

・働く車

ブルドーザー、ホイールローダー、コンクリートミキサー車、ダンプトラック、コンテナトラック、タンクローリー、フォークリフト、ウイングトラック、ごみ収集車、路線バス、幼稚園バス:その名称で

軽トラ:「小さいトラック」あるいは「けいととらっく」

クロネコヤマトの宅配車:「ニャンニャントラック」

ヤマザキパンの運搬車:「パンパントラック」

サカイの引っ越しトラック:「パンダちゃんトラック」

*追記 現金輸送車:「げんきんせいそうしゃ」(マネーロンダリングというやつ…これ、農協あたりでよく見る警備会社の窓つぶしたバンを「現金輸送車かな」といったら気に入ったみたい)

・普通車他

日産ノート(赤):「ママの赤い車」「ママの赤い車とおんなじやつ」

日産ノート(ほかの色):「ママの赤い車のほかのやつ」「ママの車とおなじやつ」

その他の赤いコンパクトカー:「赤い車」

オレンジ色のコンパクトカー:「おねえさんのオレンジの車」(同じ駐車場の幼稚園のお姉ちゃんのところが乗っているので)

トヨタクラウン(白・銀):「しゃちょうの車」(同じ駐車場の「社長」のところに停まっているので)

トヨタプリウス(白):「ぷりうすのよその車」

トヨタプリウス(黒):「お兄さんの車」(同じ駐車場で男性が乗っているので)

軽自動車一般:「黄色いなんばんプレートの車」

ミニバン一般:「バスみたいな車」

SUV一般:「かっこいい車」「大きいタイヤの車」

ジープ:「じーぷの車」「かっこいい車」

トヨタの黒いピックアップトラック:「かっこいい車」


多くは、会話の中で私が何気なく言った言葉を拾って使っているのだろうが、最後3行は私が口にした覚えはあまりない(SUVよりスポーツカー風のが格好いいと思う、ので図鑑ではフェラーリの赤いやつを「これママの車だね!」、駐車場にあるアルファ・ロメオを「これママの車にそっくりね!」とか言ってホラ教えてます)ので、多分本人の好みなのだと思う。ちなみに、ピックアップトラックが一番目が輝いている。男子が最近人気のSUV欲しがるのは二つ子の魂かしらん。

2021/06/10

怒涛の日々のまっただなかハンドブレンダーを入手したのだ

  そんなことよりももっと色々報告すべきことがあるだろうといわれそうだ。何しろ前回の投稿が1月末である。その後、3月下旬に息子とともに尾道に移動し、保育園様の力を借りながら仕事に復帰している。

 勤め先は、実習の対面実施が優先なのもあって、緊急事態宣言の前から授業はオンラインでやっている。私は、なるべく対面の授業と同じライブ感が味わえる方がいいと思いリアルタイム配信。これは去年だったら学生の通信負担の観点から難しかったそうだ。育休中にちょこちょこCourseraの海外大学のネット講義とかつまみ食いしたり無料の範囲で真面目に履修してみた結果、動画&読み物の課題提示型(オンデマンド型)でそれなりの効果を得るには、かなり緻密な構成と準備と、教育工学とでも言ったらよさそうな専門知識が必要で、私一人じゃたぶん無理だなーと思っていたので、リアルタイムで出来てよかった。機器や通信トラブルが一番心配だったが、初回から3回分くらいは進度を犠牲にしてもゆっくり丁寧に対応し、GW前までには大体双方使い方には不安がなくなった気がする。去年度の経験者である上回生たちが協力的で、トラブルの時に助けてくれたのもありがたかった。対面の講義と比べると、反応が見えないのが詰まらないし、迫力を出すために身体全体を使えないが、淡々とまだ見ぬ観衆の興味を惹きつけなければならないのだ、と考えれば鍛えられていいかもしれない。また、芸術作品の図版などを受講生がみんな手元で綺麗に見ることができるし、受けやすい仕方でリラックスして受けてもらえるのはいいんじゃないかなと(一回マイクのミュートが外れてしまった学生の歌声が響いたときには苦笑してしまったけれど)。さらに、こちらとしては、課題へのコメントと返却、再提出の流れや課題からのデータ採取などがすべてクラウド上で出来るので、紙媒体よりも作業が楽なのに丁寧なフィードバックが出来るのは思わぬ副産物だった。

 とはいえ、反応は得られるものの常に画面を介しての日々、ちょっと一杯はもちろん、緊急事態宣言になってからは同僚と立ち話もなかなかしにくく、これは坊がいなかったらかなり寂しかっただろうと思う。

 そこで坊だが、前評判にたがわず保育園最初の2か月はほぼ週に一度以上のペースで病院にかかるはめになり、常に鼻かお腹おしりに不安がある状態だった。極めつけに五月の連休後にRSウイルス性の風邪というのにかかり、のどはぜーぜー、熱も上がって一週間保育園お休みに。私はまだ家にネットもなく、病児保育も「慣れてからぼちぼち探してみよう」くらいの悠長さだったので(なんか病気のときまで預けるのも可哀そうに思ったりしてなあ…)、やむなく休講にして一緒にお休みした。なお、坊が鼻の調子を崩すと決まって私も風邪気味になっていたが、このときも例外ではなくて、熱があろうが喉がぜーぜー言っていようが体を動かしたい坊と一緒にあちこち遊びながら、鼻も喉も絶不調の末、ついには嗅覚が効かなくなるというコロナ禍では超紛らわしい事態にまでなって、あれはきつかった。よほどきつかったみたいで、前後に疲労から腎盂腎炎とか膀胱炎とかも発症し、大変だった。あー、大変だった。

 という感じで「寂しくなんかないよ、楽しい我が家だよ」というよりは、あまりに怒涛のようで色々通常の感覚がふっとんでいる間に過ぎ去ったここ2か月というものでございます。

 ちなみに、保育園はとてもよくて、それはこのチャルダッシュな日々では非常に心強かった。普段接する先生や職員さんの対応が安心できるし、全体の空気感が明るい。内装や絵本の趣味がいいのもあるかもしれない。去年東京にいてあの状況だったのでとても保育園見学などできず、母親父親業の諸先輩の結構詳しい情報と、グーグルマップと、電話で問い合わせたときの感触、あとは立地などで直感的に決めたけど、間違わなかった気がする。

 ついでに言うと、育休中に時間を見つけて仕事をするときというのは、坊の昼寝中か就眠後に、多めに見積もっても90分ほどの時間、すでにリストアップした作業を一気に終わらせるなり、論文や発表の難所を考え尽くすなり、アイディアを出し続けるなり、というもので、そのノリで9時5時に仕事をしようとすると、集中しすぎかなんなのか頭の疲労もヤバいしその前に腰とか内臓とか色々身体がついていかないということが早い段階で判明した。産休前とかより使える時間の絶対量は減っているので、すぐに深い集中に入るなり、ブルトーザー的に事務処理をやるなりというのは悪くないのだが、とはいえ少し反省。復帰3週目くらいからは、時間を決めて休憩を取り、体の緊張を意識的に取り除くように気を付けている。結果的にはよくできた受験生みたいになっている。早寝早起きだし。

 そんなこんなでやっと慣れてきた最近になって、うちに登場したのがブラウンのハンドブレンダーである。ご冗談でしょう?って思いますよね、離乳食終わった時期になぜ?と。まあ、なぜかなと自分でも思うのだけど、「時が来た」という感じで手に入れて、これ、つぶせば美味しくなるというわけではないのが面白いところなので、これから美味しかったレシピはちょっとここに度々書いていこうかと思います。


基本バナナジュースと応用

バナナ2/3(朝、坊が半分食べるのでその残りと、1.5センチ幅に切って冷凍してあるやつ2切れ)・広島のレモンスライスの冷凍1/2-1枚・牛乳120-150cc

応用は、洗った小松菜や青梗菜を適当に加えたりすると色も綺麗で気分がよい。分量は葉っぱ3枚くらいから初めて、様子を見て増やすといい気がする。これも冷凍しておいてもよさそう。冷凍のものが何も入らないともったりと味がぼやけるので、冷凍ものを入れるのがいいが、あまり多いとそれはそれでお腹がびっくりするので調整する。レモンは国産をよく洗ってスライスしたものを冷凍しておくと、皮ごと入れて飲んでしまえて、少しの苦みも清涼感があってよい。

2021/01/30

うんにゃー(近況)

 えらいこと投稿があいてしまった。いつのまにか2021年ですよ。

 11月からこっち、壮絶にバタバタしながら日常が続いていて、とにかく忙しかった。研究関係の仕事をいくつかやって、それがメインではあったのだけれど、11月は子が腕にやけどをしてしまって三週間くらいみっちり病院通いしてたし、保育園の申し込みなどもして、12月には子の一歳のイベントもそれなりにやって餅しょわせたり写真館に行ってみたりなどもし、一つ仕事の終わった隙に夜間断乳を敢行したり、お忍びで尾道に行って家の様子をみたり車にチャイルドシートを取り付けたり子連れ旅行の難しさを実感したりし、年末年始には義父母に甘えて夫と半年ぶりのランチデート(前回は夏によしのラーメン)をしてみたりもした。

 諸々の忙しいのは大体はお昼寝中か夜寝かせた後に集中してやらなければならず、ただし夜気分が乗りすぎると次の日のお昼寝時間は自分の昼寝に充てなければならなかったりする。風邪をひいても休めないから風邪をひく前に休まなければならない、というのは、「予防」などという生易しい言葉ではなく「先制攻撃」あたりが相応しい。年末に夜間断乳したら、一気に使える時間が増えた。そうこうしながら午前中は公園か児童館で動き回り、夕方はうちで一緒に遊んだり、遊ばせながら出来る仕方で家事を消化したり、毎日はゆるゆると続いていて、一日が長いのに対して自分の自由に使える時間があっという間に濃密に過ぎていく感覚には、小中高時代なんかを思い出したりもした。それはそれでメリハリがあって悪くないし、とにかく坊の成長は日々胸を打つ。こんな短い期間に、驚異的なスピードでこの世界の生き物になっていくのだからまあ、周囲の人間としては「時空歪んでないかこれ?」くらいの感覚で巻き込まれるのは当然のことだよなあ、などとも思う。体質が色々変わった勢いで花粉症も引っ込んでいる気がするのは有難い話だけれど、日常生活より一段抽象度の高い語彙が壊滅的なので、四月からの授業がかなり不安。リハビリしなければ。

2020/10/01

とりあえず我慢しとけ、みたいなのが嫌いなので -育児雑感(8)-

 この表題で書きたいことは山ほどあるのだが、今日は服薬の話。

 先日、胃であろう腹部と背中一部がまた痛くなって、しばらく様子を見ても治らないので病院にかかり薬をもらった。たぶん、胃を痛くしている原因(これは自分の仕事の方)と少し距離を置いて、二晩くらいぐっすり眠れば治るやつだと思うのだが、この二つ目が殊の外難しい。タイミング悪く、坊は虫刺されと風邪ひきかけの鼻づまりが不快らしく、一時間に一回レベルで起きるし、授乳だけでは寝てくれずに、私が寝ようとすると文句を言う。夫が仕事だったので、普段は子がお世話になっている診療所に電話して相談し、待合でなく空き部屋で待たせてもらうことにして子を連れて行った。

 先生に診てもらい、発疹未発生状態の帯状疱疹という可能性を若干残しつつも、胃が痛んでいるのは確かであろうということで、胃薬と痛み止め。「授乳中でも問題ないお薬はいくつかありますけど」と、一番典型的なのを処方してもらった。

 ところが、薬局で「この胃のお薬ですが、授乳中でしたらミルクに変えたほうが安心です」と言われる。先生に授乳回数や量なども相談したうえで大丈夫だと言われたと返すと、「でしたら大丈夫なのでしょう」と言われたが、こういうの、不安になるから本当にやめてほしい。

 妊娠中とか授乳中は「薬飲めないし大変だよね」という極端な情報が広まりすぎていると思う。それが、本当に科学的に影響が懸念されるからなのか、「念のため」なのか、その肝心なところが、いつも分かりにくい。特に、この文化圏では、妊娠出産育児に関して、民間信仰じみた我慢の強要が当たり前のように存在するので(何しろ、人口のうち大きな声と権力を持っていがちな方の半分の身には起こらないことだから)、とりあえず「あなたが少し我慢すればいい」に相当するような見解を示されたときには、深く深く疑って調べることにしている。

 妊娠中の服薬に関しては、本当に重大な影響がある可能性が高い超初期~初期だったり、早めに子宮収縮を促してしまうものだったり、臨月になっていざ、というときの処置と干渉するようなものだったりがあるので、産科に都度確認したほうがいいでしょう。

 とはいえ、あまり勉強していない医者は、臆してちゃんと効く薬を出すのを渋る傾向がないでもない気がする。妊娠中期に風邪をひいたときには、最初近くの診療所で出された漢方薬では鼻づまりが悪化し、嗅覚障害が一週間くらい続いてお盆のご馳走の味が分からなかったらどうしようと不安になったし、咳も残り、結局産科で西洋医学の方の咳止めをもらうことになった。また、つわりで、本当に食べられなくてつらいときに、効き目のひっじょーに穏やかな吐き気止めと胃薬を出されたときには(男性の産科医で、「吐いても食べろ」とか心ないことをいうから呪いそうになった)、諦めきるまでにヨーロッパアメリカのつわりの薬事情を調べまくり、キャサリン妃がやはりひどく苦しんだという情報でやっと諦めが付いたものである。無痛分娩であっという間にヒール履いて化粧して優雅に退院するプリンセスでも打つ手がないならまあ、仕方ない。思えば、豆粒ほどの坊が、うっかりすると階段二段飛ばしとかしてしまうデカい身体の中で安全を手に入れるための必死の策だったのかもしれない。彼ならやりそうなことだ(あ、この辺は「民間信仰」系ですね、その週数ではまだ意志はないはず)。

 授乳中に関していうなら、「薬の成分は母乳に移行します」というのは、当たり前の話だ、食べたものから血が作られ、その一部が母乳になるのだから。知りたいのは、量的にどれくらいからが乳児に影響があるか。成分としてどれが健康な乳児に悪影響を及ぼすのか。いつ飲んだ薬がいつの母乳に移行しているのか。

 私が、授乳中の服薬で参考にしているのは、以下のサイトの情報です。

授乳中に安全に使用できると考えられる薬 - 薬効順 -(国立成育医療研究センター)

 今回のガスターも、頭痛やなんかの時に役立つロキソニンやカロナールは勿論、花粉症のアレグラやクラリチンも、多くの抗菌薬や有名な抗ウイルス薬も、極端な量でない限り大丈夫だと考えられるし、その理由も載っている。頼りすぎは良くないといっても、ちょっと頼ることができれば、生活の質は大きく改善するものだ。

 大体、気軽に「いったん中止して」と言う人は、母乳育児のリズムを下手にいじると何が起きるのか知らないんだろうな。頻回授乳をいきなり止めると、母乳が詰まったりするし、それをちゃんと出してやらないと(これも技術とか慣れが必要、赤ちゃんがちゃんと飲むのが一番楽に出せる)炎症を起こして乳腺炎といって夜中物凄い悪寒に襲われて40度近い熱が出たりするし、悪化させると最悪切開しなければならなくなったりする。私が冬に39度熱を出した時には、母乳外来には「インフルエンザの検査をしてそちらを否定してから来るように」と言われたが、今なら、40度の熱で病院にかかるのはもっと大変だろう。それで母乳が出なくなったら今度はミルク、平均一ヶ月一万円といわれる出費は母乳の場合は幾分は母親の食費の方に相殺されているとして、準備も洗い物も外出時の荷物も増大する。分泌を維持するためには搾乳というが、それを、薬飲みたいくらいしんどいときに、子供への通常の調乳・授乳・片付け・おむつ周りのお世話に加えて、誰がやるのかというお話。

 こんなこと、まあ、どうしてもやらなければいけないとなったらみんなやっちゃうのだけれど、普通にしていても大変なのにさらに大変になるようなことなので、薬剤師の看板を掛けているような人は、通常の範囲の調べものと少しの想像をしてみたうえで物を言って欲しいと思った次第である。

2020/07/30

まいにちまいにちの料理だからこそ!

 育児休業中に家族と同居していると、自然、主婦的な役割を担うことになるが、乳飲み子連れ&疫病流行のタッグでそうそう外食も出来ず、かなりの割合で一日2食を作り続ける毎日(+離乳食。昼食もなのは夫の在宅勤務による)。これ、本当に大変。といって、延々家事育児&ごはんづくり自体は、一般的に乳幼児育児中の通常運転モードに近いのだけど、多くの人々が毎日のごはんづくりをする羽目になってその大変さに注目が集まるというタイミングに重なってしまったために、仲間が多くて疎外感は控えめだ。まあ、なんというの、これは孤独にできる闘いではないので、ラッキーかもしれない。
 全世界の同志たちよ、食器洗い機と大きな冷蔵庫冷凍庫を讃えましょう。機嫌よく台所をまわし続ける技(=料理の腕、ではないことに注意)の使い手を讃えつつそれに続くべく修行に励み、そこまで頑張り切れないときには温かい慰めと励ましとお惣菜に頼り、時にケーキなんか投入したり頼まれてもいないのに小麦粉を捏ねたり地球の裏側の料理に挑戦したり、とにかくあらゆる手を尽くして、この食べてもお腹がすいてまた食べるものを調達しなければならない不便な身体と付き合ってまいりましょうぞ。
 家事の終わりのない大変さを正しく認識することと、それを苦行として生きることとは全く違うので、毎度続く食料調達こそ、クリエイティヴな活動として楽しみたい、と思っていたら、そんな気持ちをいい感じに戦闘的にクリアに語る文章に出会ったので引用しておく。桐島洋子著『聡明な女は料理がうまい』(アノニマ・スタジオ、2012年)より。
彼女(有能な職業人であり、必然的に有能な主婦である人:引用者補足)たちにとっての家事は「シジフォスの神話」の重苦しい岩塊ではなく、一種のスポーツのようなレクリエーションである。とりわけ料理というのは、個性や才能がメリメリと生きる創造的な仕事だから、他の家事はともかく、料理だけは他人にまかせたくないと、意欲的な女なら思うものである。
 1976年初版出版ということだが、一章(料理だけがからきしダメな友人に、激凝りのフランス料理から始めることを勧めるやつ)など特に秀逸で全く古さを感じないし、様々なタイプのパーティの勧めや、急な来客があった設定でじゃんじゃかおつまみを出していく方法も面白く勉強になった。他方、台所用具や調味料の揃え方や、世界各国の当時珍しいものであったろうレシピなどは流石に時代を感じ、また最初のほう、例えば「男性的」という言葉を決断力、大胆さ、柔軟さ、発想力、包容力etc.の美質に結び付けるくだりなどは圧倒的に化石化している(今だったらむしろ女性的といったほうがしっくりくるだろうし、そもそもここにジェンダー色は必要ない)のだけど、それはそれで現実が着実に前に進んでいるってことなので、まあ、喜ぶべきであると思う。

2020/07/13

とにかく歌うのだ -育児雑感(7)-

 小さい人と暮らしていると、「衣食住」の次に加えたいくらい、よく歌い、なんなら踊ることになる。
 「いないいないばあ」「おかあさんといっしょ」の類の子どもむけ番組は、ほとんど歌って踊っているのだけど、まあ楽しそうに見ること。同じ頃の小さい子と遊ぶような、慣れない子らにとっては一触即発の場面でも、歌と絵本は鉄板。そういえば幼稚園でもよくよく歌ってたな。寝ぐずって抱っこの中でもがきながら泣きまくっているようなときも、歌うとひとまずは落ち着いて聞いてくれる(こともある)。他の仕事で離れなければならないとき、遠くからでも歌声付きならちょっと長めにひとりで遊んでいたりもする(比較的)。
 いきおい、日によっては一日の半分くらい歌い続けてるなあーみたいな時もあったりする。

 ミュージカルやオペラに抵抗を感じる人の理由として「突然歌いだすのが不自然」とか「会話が歌なのが変」というそのものずばりな批判(難癖?)がありますけど、あれは悲しい勘違いなのがよくわかる。

 人間は突然歌いだしたい生き物だし、歌は時に会話よりも心を通じあわせるものだった(*1)。それに、歌うと当然のように身体は動く。
 昔、「なぜインド人は踊るのか」と訊かれたインドの方が「人間は石じゃないからだ!なぜ君は踊らないの?」と答えたという素敵なエピソードを見たけど、あなたが突然、気軽に、歌ったり踊ったりするのにそんなにも抵抗を覚えるのなら、自分が石になりかかっていないか、なにか人間的でないところに押し込まれていないか、確かめてみるのもいいかもしれない。

 閑話休題。

 何を歌うかというと、即興でしゃべりたいことを歌にしたり、好きな歌を歌ったり、昔の合唱曲とかが出てきたり、色々。今はGoogle様とYoutube様のおかげで、うろ覚えの歌詞を覚えなおしたり、昔好きだった歌の断片からメロディを確かめたりできて、レパートリーが増やしやすいのはありがたい。
 最近、午前の昼寝に抜群に効くので歌いまくっているのが、『ソロモン・グランディ』、マザーグースに谷川俊太郎が訳詞をつけて合唱曲にもなっている歌である。とっても歌いやすくて、うるさすぎないところが気に入っているのだが、歌詞がじゃっかん…。

   「ソロモン・グランディ、ソロモン・グランディ
   月曜に生まれて
   火曜に洗礼
   水曜に結婚して
   木曜に病気(タッタタッターッタラッタッタ)
   金曜に危篤
   土曜に死んで
   日曜には墓の中」

まあ、危篤に一日取っているあたり、大変きめ細やかなのだけど、何度も歌っていると縁起でもない感じもする。
 なので、たまに、赤ちゃん・グランディに変えております。
   「月曜に生まれて
   火曜に寝返り
   水曜にお座りして
   木曜にハイハイ(ハイハィハィッハーィハィハィハイハイ)
   金曜にたっち
   土曜にあんよ
   日曜にはかけっこだ!」

 お粗末さま。


(*1) これは、香港の学校でいま、自分の政治信念にかかわる歌を歌うことが禁止されたという話を目にして、他の規制にも増して憤りを感じるところだったり、国家斉唱の強制への嫌悪感にも通じる。自分のからだと心の求める歌を歌うのでなければ石になってしまう。
 

2020/06/06

よき市民であるための睡眠について、または、思い煩うな。-育児雑感(6)- 

 夫の育休明けあたりから私には胃痛に続いて腰痛が発現し、かつ、離乳食開始に伴い食事リズムが乱れがちな寝返り初心者の坊は、昼間以上に夜間規則的に栄養を要求する&寝ぼけて意図せぬ寝返りでベッドにぶつかったりしてガンガン起こしてくれるところに、昼間もそのへんで在宅仕事の遠隔会議などやっていると気も遣い(たぶん世の中のテレワークの人のパートナーほどちゃんとしていないから、それで気を遣っているのかって感じだがとにかく気は遣う)…というのが地味に蓄積に蓄積を経た木曜夜。
 すごくいいところを起こされて授乳している最中、ひとり夜の読書かSNS上での交友か何か平和な就眠儀式を終えた夫が寝入っているのが、うっかり目に入って(大きい人はついさっきまで起きていて、小さい人は今起きたところなのだが関連の追求はさておき)、ついに憎しみに似た羨望で焦げた。
 私だって起こされないで眠りたいし、もっと重要なことには、連続した睡眠をとれる見込みで寝る前ののんびりしたひとときを過ごしたい。怠惰ゆえに寝過ごして後悔するなんていうのも夢のような贅沢に思える。そういえば夕食後この人ビールなんて飲んでいた、オールフリー切らしていたのに。飲まないから羨ましくないなんてことはないのに。
 (ちなみに夫は「参加」とか「協力」とかでなく完全に育児のパートナーで、今はあちらが仕事をしている関係上私の分担が多くなっているが、授乳以外はすべて担当できるし、育休中は授乳と夜間対応がないぶん育児だけでなく家事も献身的にしてくれていて、正気の私であれば文句のあろうはずはないし、ビールくらいじゃんじゃん飲むべきである、とは申し添えておきます。すまん。)

 これは良くなかった。一旦起きて眠れないのはそんなに珍しいことではないけれど、矛先が具体的な人間に向かうのは良くない。一神教と二元論とどちらが便利かとか考えていればまだよかった。まあ、何もしてません、念のため。一夜明けて、昼寝を狙うものの、思うようにいかず、蒸し暑い気候も相まって全く気が晴れなかった。


教訓1:理由があって寝られないときに、寝ている人間を見てはいけない。
教訓2:理由があって寝られないときに、すべきことは、「眠れるときに眠ること」だけである。決して考えてはいけない。「いつになったら眠れるのか」「なぜ私は寝られないのか」「こんなに眠れなくて大丈夫なのか」などなど。

c.f. 「この胡瓜はにがい。」棄てるがいい。「道に茨がある。」避けるがいい。それで充分だ。「なぜこんなものが世の中にあるんだろう」などと加えるな。  ーマルクス・アウレリウス『自省録』ー

 ところが昨夜、ずいぶん久しぶりに夜中に四時間半連続で寝てくれたらしい。私もそれくらい眠れたみたいで、今日の昼間は目に見えて頭が働いて、「これが集中力、そうそうこれこれ!」ってなっていた。小さい人の日課をするのにも余裕があるし体力的にも楽。ニュースなどをネタに家族で話をしても、言葉がちゃんと出てくる。取り上げるほどでない話題をスルーできる。本の続きを読むのにも身が入ったし、何より、ジョージ・フロイドの事件に端を発するアメリカの色々な流れについて書かれたものをやっといくつか読めた。
 これだけの歴史の潮目にいて、ここ2週間くらい、私の最大の関心は「今夜はどれくらい寝てくれるか&眠れるか」にあった。その次に、日々の食事や散歩やなんかがあって、他のことはみんなひっくるめて雑音みたいだった。それが当たり前すぎたので、一瞬余裕ができた今、自分があまりに狭いところにいたことに気づいて愕然とする。そのあいだ、私は悲しいほどに研究者でなかったし(夫の育休明け以降、覚悟はしていたが研究からかなり遠ざかっている…体調の問題だと工夫でなんとかするわけにもいかないのできつい)それ以上に、よい市民じゃなかった。
 今まで以上に未来のことをしっかり考えたいはずが、なかなかそうできる状態がやってこない。今は少し開けているけれど、また狭いところに戻るのだろう。本当は長く潜って先にいきたいけれど、浅瀬にいる分の酸素しか蓄えられないときが多い。…とはいえ、こういう「感じ」はなんとなく、知っておいて覚えておくべきだという風にも思う。

教訓3:良き市民であるためには睡眠。ブラック企業はやっぱりいけない。
ただ、そうでなくてもひとには良き市民ではいられなくなる時は結構ある。

2020/05/08

その赤子、県知事につき -育児雑感(5)-

 産後の女性は、2-3時間おきの授乳(*)に備えてホルモンバランスが変化するので、一瞬にして深い眠りに就き、あるいは目覚めることが可能であるらしい。確かに、私はもともと布団に入ってから眠れるまでに平気で一時間以上かかったりするぐらい寝つきが悪いし、寝覚めもいうまでもなく悪いほうだったのが、極度の睡眠の欠乏からか何からか知らないけれど寝ようと思ったら七割くらいの確率ですぐに寝られるようになったし、起きるのは相変わらず辛いけど辛いなりに何とか目覚められているので、うっすらとそういうものなのかもしれない。
 ただこれ、毎日やっているものだから、いい加減身体の方もうんざりしてきて、きっちりあるべきところに目覚めたり眠ったりせずに、変な隙間に入り込んでしまうことも多々あるのである。

 昨夜の設定では、我が子はどこかの県知事だった。

 思うに、ニュースで近頃、都道府県レベルの意思決定が盛んに取り上げられているのが、頭に残りすぎてるみたいだ。一応正確を期すと、どこかの実在の知事が自分の子になっていた、ではなく、子が、彼自身のままで知事職に就いているという設定である。

 夜中1時の授乳の数時間後、どうしても自分のベッドは嫌だというので隣に来ていた子が、もにょもにょと蠢き始めたらしい。腕を上に思いっきり伸ばしたり、首をぶんぶんと振る気配で、私の意識もなんとなく浮上してくる。
 うーん、やっぱり朝までは寝てくれないか。
 薄目を開けてみると、目をぎゅっと閉じたまま顔をくしゃくしゃにしている。こんな時に知事なんてやってたら仕方ないね。重責が違うもの。よしよし、大丈夫だからね、とダメもとで声をかけて、トントンして、再び眠らせようとしてみる。
 ああ、駄目だ、足バタバタも始めた。驚異の腹筋で身体を折り曲げ、足はほとんど頭上に届きそう。おむつは膨らんで、脇腹や背中には汗もかいている。だって、大変だもんね、緊急事態とか言うだけ言って国もなんもあてにならないし。よし、おむつ替えからだな。おくるみはくしゃくしゃに丸まってどこかにいってしまったらしい。これも、多忙を極める知事業ゆえだ。
 いよいよ私が気づいたことに気づいた子は、「あ!」「あう!」と声を上げてさらに注意を引こうとする。これで、コロナ禍のさなかに各方面への調整をやってのけているのだ。お腹も減ろうというもの。
 世の中、いいおじさんになったような人が知事やってるようなところもあるのに、この子は本当に頑張ってるのだ。ほかに赤ちゃんのところってあったっけ。みんな凄いよね。

 スマホをみると4時過ぎ。
 よろよろ起きだしながら、ようやく、ここにいる赤ちゃんがどこかしらんが県知事というのはおかしいということに思い当たり、粛々とおむつを替え、記録のためのタイマーアプリを起動して授乳する。



(*) ここで2時間と3時間をまとめる乱暴さよ!授乳間隔2時間と3時間には天地の差がある。2時間だったら1時間も眠れないけど3時間あけば1.5時間くらいはしっかり眠れる。もう少しあいて3時間眠れるとだいぶん楽だ。1か月と1週間が過ぎたときに、初めて4.5時間続けて眠れた時は、本当に身体が軽くて、頭のなかの霧が晴れたような感動があった。3ヶ月くらいから、週の半分くらいで4-5時間続けて眠れる回が出てくるが、なかなか安定しない。1か月かそこらから人間並みに眠らせてくれる子もいるらしく、羨ましいことこの上ないが、他の万事とおなじく、これも凄く個体差が大きいみたいなので、恨みっこなしですねえ。

2020/04/15

「今がいちばん可愛いとき」の真意 -育児雑感(4)-

 重い話のあとには軽めの話、苦いののあとには甘いのを(*)。
 

 四か月になると、手を握るのも反射ではなく、私の手の動きを封じようという意思をもったものだったりする。ただ甘えたくて服とか腕とかをつかんできたりもする。
 目に見えるものと、触れて確かめるものが、次第に一致してきた。この世界に焦点を合わせて、自分の力がおよぶ範囲を拡げていく。思い通りに動けることに嬉しそうにしていると、こちらもうれしい。

 三か月を過ぎたころ、ある日、授乳中に動きが止まったのでふとみると、こちらを見上げてなんともいえない幸せそうな顔で、ゆっくり、にこりとした。いつも飲んでいるおいしいものは、私があげてるんだって気づいた瞬間だったのだと思う。あれは、なにか感動的だった。しばらくの間、この感動を反芻しているかのように、たびたび授乳中にこちらを見上げて笑顔を見せていた。


 足の指は生まれたときからとても器用だ。2か月半でボールの玩具を渡してみたときには、手よりも足で挟んで動かしていた。寝転がっている時には、両の手を合わせることができるようになるよりもずっと前から、足の裏を合わせたり、片方の足の指でもう片方の足首を掴んでみたり。まだ、「立つ」「歩く」機能に特化されていない足は、とても自由でのびのびしている。

 「今がいちばん可愛いときだね」と言われると、前は、「これから大変になるのかしら」とか「それどころじゃなくなるのかな」と思ったりしたものだが、どうも、思い違いをしていたようだ。「今がいちばん可愛い」ーーこの言葉から単純に想像すると、可愛さのグラフは、まるで山形をしているように考えてしまうが、そうではない。

 先週「今がいちばん可愛い」と思ったのに、今日また「今、最高に可愛い」と思っているし、昨日もそんなことを思っていた気がする。
 思っているだけでなく、姿を前にすると、口に出てしまう。
 しかも、大真面目なのだから始末に負えない。
 どうやら、こと子供に関する限り「今がいちばん可愛い」は、その「今」において、私が存在するのと同時に存在している時間の一瞬一瞬において、超主観的で絶対的な真実であるらしいのだ。

 (*) ーーこれこそが、DNAに刻まれた「もう出産なんて御免だ」を打ち消しかねない、種の存続のためのキケンな罠だとも思うわけですが。

2020/04/12

長く、生々しい話。-育児雑感 (3)ー

 子供生まれてから、「思てたんと違うことってあった?」としばしば訊かれる。実はこの件に関してはあらかじめ何か考えてなどいなかったので、「予想と違う」というより、ぼんやりとフィクションで知っていた「イメージとだいぶん違う」って感じですかね。強烈なのは誕生前で二つあるけど、今日はひとまず一つ。

 すなわち、陣痛的なやつから実際に分娩に至り、かつ生まれる、というプロセスまでの長さだ。漫画やドラマとかで「うわ、きた!」みたいになって、ひとしきり痛そうにして、次のシーンで「おぎゃあ」っていうやつがあるけれど、演出上仕方がないにしてもあの端折り方は有害だ。

 そのぼんやりとしたイメージは、けれど大体は、妊娠後期の母親学級で「初産婦は12-18時間くらいです」とか「人によっては三日くらいかかります」とか言われて、どうやら長いぞ、くらいに更新される。ついでに「そのうえで薬を使って誘発になる場合も」とか「結局切開になることも」とか、「陣痛だと思って頑張ってたのにおさまっちゃって帰された」とか「薬が効きにくくて二日目(と三日目)に仕切り直しした」とか、あるいは「痛みに耐えられるうちは歩いたり買い物に行ったりお風呂に入ったりして」とか「歩けなくなってもまだ転がっちゃだめ、あぐらで!」とかいう話を聞いて、お、おう…、となって、この時点で通算12回目くらいに「よく人類ここまで続いてきたな」と思いながら気を引き締めたりもする。
 そうはいっても実際に痛みが付き始めると、夜は眠れないし、「まだ余裕なんだろうな」と思いつつも間隔も気になるし、何かほかのことに集中しようにも不可能なので、「そこそこ進むまで普段通りの生活を」なんていうのはまあ、絵にかいた餅だ。私の場合は、十日前に壮絶なお産を経験した妹とそれに立ち合った母が居たので、ほとんど強制的に極力普段通りの生活というのをできるだけ実践するみたいになったのは結果的にひょっとしてよかったところもあったのかもしれない。だからと言って楽ではなかったが。というかよくてアレなのか。

 規則的な痛みが満月の深夜に始まり、夜中のうちに破水疑いで一度病院に行って、前駆陣痛だろうと帰され、ひとまずは横になって痛みをやり過ごしながら夜を明かし、ちょうどその日の午前に健診だったので病院に歩いていき、「この感じだともう入院してそのままお産になることが多いけど、治まっちゃうこともある、どうしますか?」と訊かれて「近いので帰ります」と、一応始まらなかった場合に翌週誘発を行うためのサインだけして歩いて帰ったのがお昼。家でパスタを食べたのはいい選択で、病院食よりは格段に元気が出たのじゃないかと思うが、その後一時間ほど痛みの合間にうとうとして、まだ昼間だけどお湯を張って風呂に入り、いい匂いのボディオイルでお手入れとかしてるその時点でもう深呼吸とかでどうにかなる痛みではなくなっていたが、犬を抱いてうずくまっていると、「陣痛が消えちゃうから動いたほうがいい」などと言われて階段の上り下りを試み、吹き抜けに干してある洗濯物に顔を突っ込んでうなったり柱に抱きついたりしながら、あるべきイメージとしては呼気の勢いに載せて力学エネルギーを周囲のモノにじわじわ逃がして持ちこたえるところだけど、実際には諸族が頑張ってどうにか持ちこたえている城門を改造オークの軍団が矢鱈巨大な破城槌でぐわぐわ押してくる感じの痛みに対し、「来い」と「やめてくれ」の入り混じった頭ぐるぐる状態で耐えていた。

 痛みは怖いし嫌だが、ここで痛みが遠くなってしまったら来週もっと痛い(らしい)誘発になる(し、その間にも中の人はどんどん大きくなってしまう)、と打算にまみれた複雑な精神状態は、多かれ少なかれ分娩態勢に入るまで続いた。美術史をやっていると、しばしば遭遇するのがローマ帝国支配下の初期キリスト教時代に弾圧されて殉教した聖人の話で、切る刺す打つ炙る、から、腸を引っ張るやら歯を抜くやらまで無限のヴァリエーションの拷問のなかに、彼ら彼女らは進んで飛び込んで行く。だけでなく、恍惚のうちに更なる痛みを求めたりするかのように記述されるものだから、どんな変態だよと思っていたけれど、彼らもまた棄教や地獄の恐ろしさに比べてマシな現世的な痛みを選んだうえでやっぱり後悔しながら「もう無理ー!でも地獄はもっと無理だからお願いします―!」とか言ってたんかなあ、などと考える。考えて気が紛れるわけでもなく。

 結局、夜ご飯の席についたとき、テーブルの上の皿と料理をすべて腕で薙ぎ払って溢し尽くし割り尽くしたら幾分マシになるんじゃないだろうか、と思ったので、次の瞬間「もう無理だから病院に連れて行って」と家族に頼んで車で送ってもらうことに。産院について助産師さんに診てもらうと、子宮口は7cmまで開いていたらしく、よく我慢したと褒められた。ちょっと希望が持てた。
 しかし、それから6時間。ここはなんかもう、思い出して書くほど傷が癒えてないところだ。耐えるとか向いてないし、そもそも痛みは苦手なんだ。でも痛みが得意な人間なんているんだろうか?

 結局、痛みが始まってから24時間、母子手帳に書かれた時間にして12時間というのは、初産婦としては別段に長いわけではない闘いであるらしい。だが、長い短いなんていうのは所詮、時計の区切りに過ぎない。

 さっき殉教聖人を引き合いに出したのは、別段の飛躍でもない気がする。というのも、よく子宮収縮の痛みに関して、「お母さんが耐えられるようにちゃんと少し間隔があいています」とか「ちょっとずつ強くなるので慣れてきます」とかお砂糖振りかけた説明がなされるのだけれど、待てよ。「間隔をあけて、少しずつ強くなって、ぎりぎり意識を保てる程度には耐えられる」痛みって、つまり拷問じゃん?非人道的じゃないん?何故、こと妊娠出産となると「病気じゃないから」って何かと「耐えろ」になるのか。病気じゃなかろうが結構立派な症状あるんですけれど。やっぱり「人道」の「人」もManの方なわけ?全く、人間がみんなコレを経験することになっていたらもっと違う方策があったと思うし、少なくとも集団の意思決定に関わるほうの半分がコレを経験することになっていたら、全く違うプロセスになっていた気がする。

 いや、本当に、人類よく続いていると思う。

2020/04/06

and decide to create a dream come true ー育児雑感(2)ー

 「夢のような瞬間」というのは、人生のそこかしこに散らばっているものだけれど。
 何度も反芻してしまうのは、子が生まれた数時間後の、朝のひとときだ。

 長い闘いのあとで、初めて対面したのは深夜を回ったあたりだった。風も結構強いタイプの吹雪の夜だった。そのときには、とにかくまずは「終わったー」で、感覚も感情もメーター振り切って、笑ったり泣いたり、もう大丈夫ですよとかすぐ終わりますからねとか言うけど全く大丈夫でなくずいぶん長くかかる様々な処置に耐えたり、ほっとしたり、その底に恐怖がまだあったり、ぐちゃぐちゃで何がなんだか正直よくわからないような感じだった。
 その後随分してから部屋に移されて、一人になって、休むように言われる。寝返りをうとうと身じろぎするだけで身体がばらばらになりそうで、かろうじて枕元にあった水とチョコレートを口に運び、眠れないながら目を閉じている二時間くらいのうちに、身体と頭がゆっくりと冷えてきて、朝が来た(あとから知ったけど、かなり酷い貧血だった)。

 預かってもらっていた子が、コットの中でバスタオルに小さくくるまれて戻ってきた。寝ている状態でも、透明のいれもの越しに帽子をかぶせられた小さな頭と、ぎゅっと閉じられた目が視界の端に入った。取違いようのない、強い眉。
 魔法みたいだった。本当に、いる。
 頑張ってベッドの柵に手を伸ばし、よろよろ身体を起こすと、丸いバスタオルおくるみの全部が目に入った。小さく息をしている。冷たい身体を満たしている壮絶な空腹と倦怠感と頭痛の真ん中に、陽の光が当たったような幸せがじわじわと沁みていくのがわかる。
 夢じゃなかった。

2020/03/23

昔はものを思はざりけり ー育児雑感(1)ー

 色々あって、ものすごく長く間があいてしまった。
 今は、週末に生後百日を迎えた息子の寝ている隙を狙って、このページを開いてみようとしている。
 とはいっても、ここに何か書くような余裕はなさそうなのだけど。里帰り先から移動し、初めて住む東京の家で少しは落ち着いたかな、というころから、研究時間を捻出してみようと試みるものの、見事なまでに意図したとおりにいかないのだ。例えば、先週のある日は、職場の方とスカイプで打ち合わせ予定があり、少し緊張していたが、その間中よく寝ていてくれたうえに、そのあとも少しまとまった時間がとれた気がした。そこで調子にのって、以後仕事時間のログを取ってみることにしたのだが、次の日は合計で一時間も机に座っていられなかった。なんということでしょ。
 それでも、ルーティンに追われているうちに「月」レベルの時間が飛ぶように過ぎていくのが勿体なくてなにかに引っ掛けておきたくなる。また、産後は脳が萎縮するといわれるが、ふと開いた本の中の熟語の繊細な意味の差異が、自分に無関係なもののように感じられたことに、かなり危機感を覚えたりもして、やっぱり何か書いていなければならないと思うに至る。だから、つるつる言葉が出てこないところからのリハビリみたいなものだ。しかも、脳に行くはずの血液の大半を胸部付近に取られながら。

 表題は、百人一首から。
 逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり

 漫画『ちはやふる』では、大江奏ちゃんのお母さんが、子供がお腹にいることがわかったときに、こういう気持ちになったわ、といっていた。一度知ってしまうと、その前にはもう戻れない、そういう気持ちがあるのだと。
 妊娠出産から、現在進行形の子育てまで、思えば「一度そうなると前にはもう戻れない」経験の連続だったように思う。しかも、それは「ものを思う」なんて風雅なものではなく、まさに「経験」であり、考え方が変わるという言い方では生ぬるく、身体から人間の仕組みが変わるので考え方も感じ方も変わらざるを得ない、という感じだ。この過程で、私はそれまでいかに、頭に身体を従わせるというシステムで動いていたのかを実感した。とにかく思い通りにはならない、というのに尽きる。

 何もかも今までの仕事や生活とは勝手が違う。
 けどそこで起こるのが、こどもを大きくする、というある意味、人間にとっての本質的な営為だというのは、とても面白いと思う。
 むしろ、仕事にあわせて頭でデザインしてスケジュールを立てたものに身体を従わせる仕方で行ってきた所謂社会生活のほうが、ちょっと例外的に楽な状態だったみたいな。
 そして、必ずしも経験しなければわからないものではもちろんない(究極的には経験しないと理解できないものはないと思う)だろうけれど、私は経験しないとここまでわかるのは難しかっただろうなあと思う変化だったので、ああ、我ながら持って回った言い方ではあるけれど、その機会が得られたことを幸運に思う。

2018/06/11

苗字不要論、というか、苗字適当論など

 近頃、よく思い出すのが今は昔、自動車学校に通い始めて程なくして、京都北山通の交差点を右折するというミッションに四苦八苦しながら、何かがおかしい、と頭を捻っていたときのこと。
 自動車の運転なんて別に選ばれし者の秘儀奥義の類ではない。ふつーの人がふつーにやってることだ(このミッションはオートマ車で遂行されていたのだから尚のこと)。だったら何故こんなに難しいのか。
 もともと私は、運動神経のつなぎ方の関係か、新しいことを飲み込めるまでに上手く乗っかれないと人よりだいぶん時間がかかることがある。そして後から考えると、当時三度ほど続けてあてがわれた教官は、レベル付けされていない細かい指示を、タイミング遅めに出す傾向のある人だったので、相性が悪かったのだと思う。幸い別の先生のお蔭で路上でまともに判断が出来るようになったけれど。ちなみにそのころはバイト先でもその手の上司に当たっていて(*)、必要以上に無能感に苛まれていたけど、もう少し全体の流れを説明してもらえたら全然違ったはずだ。

 今さら15年前の恨み言が蘇るのは他でもない、何かがおかしいのだ。

 名前が変わる、というとまるでオオゴトみたいだけど、ご安心を、ここはアースシー(「ゲド戦記」のね)じゃないし、私の本質に直結する「真の名」とかじゃなくて、書類に載ってる社会的法的な記号みたいなのがちょろっと変わるだけのはずである。しかも、一発奮起した特別な個人だけがあらゆる制裁を覚悟で変更を願い出るッ!とかでなくて、市民やってたら時たまあるたぐいのステータス変更に伴って、希望しようがしまいがどっちかは変えなければならないというから、それでは仰る通りに、というわけ。

 ・・・なのに、この面倒くささはなんなんだろう?

 本人確認書類としての免許証を直すにはまずはお役所で住民票である。お役所・郵便局・銀行の類は平日に行って並ばなければならない(ていうかこれらに別々に足労するのもなかなか事。そういえばマイナンバーはどうしたのかしら、あんな頑張って紐づけてるのに、何故一瞬で全部変更されないの??)。これら軒並み、その場で済めばいいけれど一週間後に届くとかいう書類が多いし、一週間後に書留で来たものは在宅にて受け取るか受け取りなおすか取りに行くかしなければならない。そういうのに限ってバラバラと届くし、下手したら、変更のための資料の請求なんてのに一週間かかることも・・・。一方、職場は職場で、いくつも同じような書類に自筆で書き込んで判子を押さなければならないし、保険証に至っては二週間取り上げられたままだという。
 まあ、昔の教習所とバイトの例は、主に人間の相性や要領に原因があったわけだけど、こっちはみなさん感じが良くて、このトチ狂ったシステム上をお仕事の合間を縫って書類とハンコで渡り歩く上では一瞬の清涼剤のよう、なのですけど。
 いやいやいや、でもね!
 お勤めしてる人が、半日お休みして手続きしなければいけないとして、積もり積もったらどれだけの経済的な損失か・・・。しかも、上に書いたように、これは半日では終わらないのだ。私は幸い日によってはちょこちょこ自由に動けるけれど、それでも時給換算で大分割り引いても一万二万くらい頂きたいところです。
 これが、留学のための準備とかなら、仕方が無い。わかる。でも、ふつーの市民が決められた風に動くために、何故こんな罰ゲームみたいな一連のサイクルをやる必要があるんだろう??これ、みんなやっているって、ちょっと信じられない。

 ちなみに私、特段に夫婦別姓論者というわけでもないのですけど、同姓を強要する(・・・というかこの「強要する」というのが嫌だ、あらゆることについて。なので、選択できるという方法があるなら迷わずそちらを採る)ならするで、こんな面倒で割に合わない制度設計になっているとはまさか思いもしなかったので、軽くびっくらこいている。

 それから、特段に別姓論者でもない、というのは、「家族の繋がり★キラキラ」とかの方ではなくて、前に田中芳樹先生が書いてらした、「夫の姓を名乗らずに父の姓を名乗り続けたいというのが別に新しいこととは思わない」というのに近い。苗字そのものが、別に個人識別以上の意味合いを持たなくていいと思う。親と子の関係性や、諸々の経験や財産の授受、家族間の感情など、それぞれ違っていて、家の名前で縛っておいたら安心ということもあるまい。
 そもそも、ニンゲンをわざわざ戸籍単位で登録するのが合理的じゃないと思うけれど、そうするにしても、夫婦で新しく籍を入れるのだから苗字も自由に、そして楽に、したらいいのでは。所詮は記号だ。伝統といっても長くたって千年ちょいくらいのものであって(たいていの一般ピープルの苗字はもっとずっと短いでしょうし)、そんなんより、いま生きている短い間が幸せで、その限られた間に今とこれからの人類のために充実した仕事が出来るほうが重要じゃないだろか。
 そんなことをむしゃむしゃと考えていたら、『暮らしの手帖』でブレイディみかこさんが紹介していたのがイギリスの例。夫婦別姓がかなり浸透して、子供は両親の姓を二つつなげて姓にすると。長くなったり面倒になったら、二つの姓から部分をもらって姓を作成したり、あるいは全く新しい姓を作ったりしてもいいんですって。世界は変わるし、言葉も変わるのが当然。こんな風に変える考え方もありなんだ、と、気持ちだけでも少し自由になった。


(*)その店長はそこにいた間、多分私だけでなく誰に対しても効果的なリーダーシップを発揮することなく、やがて去って行ったのでちょっと気の毒な話でもある。

2017/08/12

帰省済報告 / 適量の難しさについて…柚木麻子『BUTTER』2017


 いくつかのミッション遂行のため東京経由で北海道に帰って、仕事場の行事の為、ちょっと前に瀬戸内に戻ったところだ。旭川では、でもだいたいの時間は、涼しい中でのんびりしたり美味しいものを食べたりすることに励んでいた。大事な人々と過ごすこういう穏やかな何日かを、働く人すべてが年に一回でも持てたら世界は大分平和になりそうな気がする。


 動物園にも行った。今年のポスター(途方もなくすばらしいので探してたが販売はしていない模様。デザインこちら)になっているユキヒョウ。撫でたい。

 あと、母が借りてきた柚木麻子『バター』(これ。*1)を奪い取って一日で読んでしまった。「君が何を食べているか言いたまえ、そうしたら君がどんな人間か言って見せよう」とはいってもそう簡単にはいかない、人間を解読しようとするうちに探偵自身が核心に巻き込まれるミステリーといっていいでしょう。でもそれ以上に、頑張りすぎたり不安になったりしがちな人が、自分の「適量」を見つけるための処方箋的な寓話である一方、女友達というキーワードを巡る命がけの決闘みたいにもなるし、誤読混じりに言えばホラーっぽくもある。
 っていうか、何を隠そう、高価なバターを不健康な仕方で大量摂取したくなる麻薬的な料理本でもある。

 以下は話の内容には直接触れないけれど、ちょこちょこ出てくる要素が微妙にネタバレするかな。

 特に印象に残ったのは、女性がいきなり体重を増やすことに対して周囲があからさまに表明する道徳的・生理的な嫌悪の凄まじさである。実のところ太ったといっても健康的な標準体重以下だったりするのに、女が減量の努力を継続せず、自分の欲望に従って食べ、ふっくらして満足しているという状態は、ここまで善人たちの、特に常識に生きる男性陣の恐怖を煽るのかと(実際に自分も、知り合いが急に太った時にえもいわれぬ恐怖と気味悪さを感じた経験もあるので)慄然とした。裏に響いているのは、性的に積極的な女性に対する嫌悪でもある。美味しそうにご飯を食べる女は可愛い。けどその予想を超えて、食べ物に過度な執着を見せると、同席者は「引く」からね。
 切り詰めすぎたり、行きすぎたり、憎んだり魅かれたり、そういう紆余曲折を経たうえで、自分の身体を作るものや自分と他人との関係に、適切なバランス感覚を取り戻すためには、やっぱり時間や金銭的な余裕がある程度は必要だ。というか、そのあたり分からなくなったら、無理やりでも「のんびり」を投入した方がいい。
 高級レストランや輸入食材、センス抜群の家庭料理、手作り焼き菓子、こってりラーメン、ファーストフード、地産地消、「愛情たっぷり」手料理、コンビニ弁当、セレブ料理教室、(この辺りでもちろん有機や無農薬、スローフードも入れたい)……どれもそれぞれ魅力があり、同時にどれも、人を引きずり込んで離さない黒い沼のようなイデオロギーを抱えている。ひとつひとつを全否定も全肯定もせずに丁寧に検証し、私たちの自由を奪うイデオロギーにからめとられることなく希望を示してくれるこのお話は、大変有難いものに思われる。とはいえ、この主人公、炎上しても会社が全力で守ってくれる出版社正社員(の立場を維持できる能力)、30代前半にして都内に客を何組も呼べるマンションを買える経済力に167cmの身長…ってなんか尋常じゃなく強い。逆に、これほど武器をもっていてもなお、適量は難しいんだと思わされたりするので、うっかりキムチチゲにバターを投入してうっとりしている場合じゃないかもしれません。


(*1) ちなみにこれに出てくるキャラクターがどうもこうも木嶋佳苗を髣髴とさせ、参考文献にも彼女に関する文献があるのだが、どうやらご本人はButterにぶち切れていたりして、なかなかサービス満点な状況になっているっぽい。