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2016/07/11

反省

 再びの低気圧との戦い。
 加えて、昼に流しそうめんをちょろっと食べたら変に食欲が増進されてしまって、学食で唐揚げ定食を半ばムキになって完食。それがあかんかった。
 「昼ごはんは食べ過ぎないこと」
 大事なことだから今度朱書きして仕事場のデスクの前に貼っておこう。
 「おにぎりとお味噌汁で十分」
 午後三時間くらいはあらかたのエネルギーを消化器系に持ってかれた気がする。
 本当はおにぎり握って「味噌玉」ともっていけば話はやいんだけど。

2016/07/09

私たちはもっとわがままにならなければ パートII

 ここのところ、溜め込んだ日本語の本を同時並行で読んでいて、おうち時間が充実している。

 けれど、こんな雨の日の金曜日には、ちょっと照明を落として、弓削の塩とニンニクで軽く焼いた薄切り肉と茄子と芋に焼肉のたれをぽっちり(嗚呼、弓削塩とかいってて台無し!)、近頃のとっておきギルティ・プレジャーである『ゲーム・オブ・スローンズ』の続きを流してキット・ハリントンの巻き毛と眉と目の間隔の三次元的な妙を鑑賞しながらハイボールを傾けたりするのもよいもの。

 随分前から私の意識はもうサバイバル志向になってしまって、国や法や政府がろくでもないときに、いかに小市民である私たち個人の自由と幸福と尊厳を守るか、そちらの方を考えるようになってしまっている。
 とはいえ、なるべくそういう状態にならないように、週末の選挙では、微力ながらより「まし」な方、より最悪ではない方、より、ろくでもなくない方を選びます。

 私たちは多分、歴史的に見ても結構よいひとときを生きてきたのだと思う。
 お蔭で、私は私のごく平凡な頭と普通に利己的な心をもってしても、基本的人権が天賦のものだと知っている。自由に生きる権利を私からも誰からも奪うことは、誰であっても出来ないということを知っている。多様性を喜び尊重することを知っている。暴力や不幸を経験した他者の痛みを想像することを知っている。学び続けることの楽しさと意義を知っている。上の言うことを鵜呑みにせずチェックしなければならないこともしっているし、そこにいたる事情はともあれ、しんどそうな人は助けるべきだとも知っている。

 法律や他の人がなんと言ったところで、変わるものではない。
 だが、せっかく法がそれを「比較的」護ってくれている現状をみすみす手放すようなことはするまい。仮に、手直しをする必要があるとしても、それをするのは、新しい、賢い世代の役割だ。

以下、参考までに。

Wordの履歴機能で、自民党が変えた憲法を見てみる
憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない

昔書いた「パートI」。
嵐の只中に ―私たちはもっとわがままにならなければ―
これは台風の夜だった。今は大雨警報が出ている。ここ何週間のうちに、警報にもすっかり食傷気味になってしまったが、気を抜くのは禁物、どうかおおきな被害になりませんように。

2016/07/05

夏の装いを大いに語る

 湿気でどこもかしこもじめじめ、低気圧による空気の重さで頭まで痛い、脚も普段以上にむくむ気がする、そんな呪われた六月がやっと去っていった。おまけに大雨のせいで、警報に土砂災害、緊急休講、さらに「構内は安全ですので二時間は動かないように」までフルコース。散歩コースの小川に自生していたクレソンは跡形もなく流れてしまった。

 待ってましたとばかりにぎらぎらと晴れ上がった週末、京都をうろうろしていたら、祇園祭期間だからか昼間から浴衣や夏着物で歩いている人をよく見かけた。観光客向けのレンタルが多いのか、ばっちりと涼し気に着ている人はそんなにいないけれど、だからこそきまってる人は目立つ。
 バスの中から眺めていただけで、完全に目を惹かれてしまったのは比較的長身の女性。白地に藍色で大きな模様の入った、それこそ山鉾町の男たちが来ているようなシンプルな木綿の浴衣を一枚で着て、臙脂に白や明るい色の入った、これもオーソドックスな博多の半幅帯をかなり直線的な文庫に。黒く塗った下駄で、黒髪のショートかごくミニマルなまとめ髪だったのだと思う。どちらかというと男物のような着方で、何も特別なアレンジがないのに、歩く姿勢が美しくて、帯の上の背中がぴしっとしているだけでなく、帯の下、おはしょりからおしり、太もものラインに余分なだぶつきが全くない。美しい骨格の上に美しい筋肉をまとった人がこれ以上なくサイズの合ったタイトスカートを身につけた時のように、清潔でいて色っぽいのである。なかなかあんなに粋にはならないぞ。きっと洋服もきれいに着る方に違いない。

 原由美子さんは、浴衣はぜひ白地に紺、また紺地に白を、とおっしゃる。「それこそ大人の女が浴衣を着る醍醐味に通じるからです」と(*1)。でも、それってなかなか厳しい。紺と白の二色なんて、きちんと手入れしてパリっとしたのを美しく着ないと寝間着になっちゃうもの。

 それで思い出すのは、昔パリ近郊のシャンティイーで初夏の競馬のお祭り「プリ・ド・ディアンヌ」に行った時のこと。帽子祭と呼ばれるだけあって、昼間の外でのパーティみたいなものなので、色とりどりのドレスに華やかな帽子をかぶったご婦人方がわんさかといる。その花園の中にあって、ジーンズで乗馬ブーツ、金ボタンの紺ブレザーという装いの若い女性がいて、視線が釘付けになってしまった。やはりスタイルがとてもよくて、ブルネットのまっすぐな髪の毛が胸のあたりまで。それで、つば広の麦わら帽子に思いっきり色とりどりの造花を付けたものをかぶっていた。顔は残念ながら全然覚えていないんだけど、これも、普通にやったら普段着で来たのかって感じになってしまうところ、生まれもったスタイルと、帽子だけごてごてに盛っちゃう絶妙なバランス感覚、そして圧倒的な清潔感。

 いいなーいいなー。

 しかし、そこまで誤魔化しの効かないところで勝負するのでなければ、生まれ持った骨格に多少難があったり、美しい筋肉ゾーンに脂肪やむくみが果敢に攻め込んでいたとしても、気合いでなんとかなるのである(ちなみに、この気合いを長期に持続させるに足る体力・集中力・細やかさがあれば、生まれながらの美人に成りすますことも不可能ではないが、私の場合は面倒になって、それらの美徳は多少はあっても、専ら美味しいもの食べたり研究したりする方に浪費してしまうからいけない)。

 件の美女により和装欲が高まった所為か、うっかり好みの半幅帯を見つけて一目ぼれしてしまった。リバーシブルで使えて、表はやさしいベージュに草花とクジャクの図案化された模様が染めてある。年中使える柄・素材だから、カジュアルな感じのきものとかにも使える、ということで、つい、買ってしまった。手持ちの浴衣は何年も着ているものだけど、絹のシックな帯を合わせたらちょっと格上げ出来そうだし、半襟付きの簡単な襦袢を仕込んだら浴衣じゃちょっと、というようなお出かけとかにも使えそう(*2)。



(*1)  原由美子『原由美子のきもの暦』CCCメディアハウス、2015年、96頁。
 これ、とにかく美しい本です。『マダムフィガロ』の連載をまとめたもので、懐具合の想定が非常にバブリーなのでそのまま参考にはできないが、コーディネートは本当にさりげなくて素敵。

(*2) 「浴衣は寝間着だから」なんていう人、今時は絶滅しているのではないかと思うが、まあ、若いコならカワイイけど、もう少し落ち着きがあったほうが、というシチュエーションだったら、衿と足袋を仕込んで、ちょっと落ち着いた帯結びにしたらいいんじゃないかと思う。