育児休業中に家族と同居していると、自然、主婦的な役割を担うことになるが、乳飲み子連れ&疫病流行のタッグでそうそう外食も出来ず、かなりの割合で一日2食を作り続ける毎日(+離乳食。昼食もなのは夫の在宅勤務による)。これ、本当に大変。といって、延々家事育児&ごはんづくり自体は、一般的に乳幼児育児中の通常運転モードに近いのだけど、多くの人々が毎日のごはんづくりをする羽目になってその大変さに注目が集まるというタイミングに重なってしまったために、仲間が多くて疎外感は控えめだ。まあ、なんというの、これは孤独にできる闘いではないので、ラッキーかもしれない。
全世界の同志たちよ、食器洗い機と大きな冷蔵庫冷凍庫を讃えましょう。機嫌よく台所をまわし続ける技(=料理の腕、ではないことに注意)の使い手を讃えつつそれに続くべく修行に励み、そこまで頑張り切れないときには温かい慰めと励ましとお惣菜に頼り、時にケーキなんか投入したり頼まれてもいないのに小麦粉を捏ねたり地球の裏側の料理に挑戦したり、とにかくあらゆる手を尽くして、この食べてもお腹がすいてまた食べるものを調達しなければならない不便な身体と付き合ってまいりましょうぞ。
家事の終わりのない大変さを正しく認識することと、それを苦行として生きることとは全く違うので、毎度続く食料調達こそ、クリエイティヴな活動として楽しみたい、と思っていたら、そんな気持ちをいい感じに戦闘的にクリアに語る文章に出会ったので引用しておく。桐島洋子著『聡明な女は料理がうまい』(アノニマ・スタジオ、2012年)より。
彼女(有能な職業人であり、必然的に有能な主婦である人:引用者補足)たちにとっての家事は「シジフォスの神話」の重苦しい岩塊ではなく、一種のスポーツのようなレクリエーションである。とりわけ料理というのは、個性や才能がメリメリと生きる創造的な仕事だから、他の家事はともかく、料理だけは他人にまかせたくないと、意欲的な女なら思うものである。1976年初版出版ということだが、一章(料理だけがからきしダメな友人に、激凝りのフランス料理から始めることを勧めるやつ)など特に秀逸で全く古さを感じないし、様々なタイプのパーティの勧めや、急な来客があった設定でじゃんじゃかおつまみを出していく方法も面白く勉強になった。他方、台所用具や調味料の揃え方や、世界各国の当時珍しいものであったろうレシピなどは流石に時代を感じ、また最初のほう、例えば「男性的」という言葉を決断力、大胆さ、柔軟さ、発想力、包容力etc.の美質に結び付けるくだりなどは圧倒的に化石化している(今だったらむしろ女性的といったほうがしっくりくるだろうし、そもそもここにジェンダー色は必要ない)のだけど、それはそれで現実が着実に前に進んでいるってことなので、まあ、喜ぶべきであると思う。