2022年4月、「おかあさんといっしょ」のうたのおねえさんが「あつこおねえさん」から「まやおねえさん」に代わり、木曜日は「プリンセス・ミミイ」コーナーから「しりたがえるのけけちゃま」になった。どぎついピンクのけけちゃまの声をゆういちろうおにいさんが演じ、視聴者=おともだちの質問を出発点に他のメンバーの一人にインタビューをして、会話からお互いの好きなもの、海でやりたいこと、すきな恐竜etc.、色々なことを知るというもの(たとえば、こちら)。ゆういちろうおにいさんは水曜日の「シルエット博士」も担当なので大変そうだ(ただ、おともだちはいずれのコーナーも中の人がゆういちろうおにいさんだとは知らないことになっている)。私はこの「けけちゃま」コーナーのゆるい会話に無茶ぶりをぶっこんでくる感じがかなり気に入っていて、「おかあさんといっしょ」はうちでは夕食後の片づけ~お風呂前の家事時間に使うのだけど、「けけちゃま」のときはいそいそと坊の横にいって一緒に見たりする。会話のぶっとび加減のほか、注目しているのが、最後にさしはさまれることのある「けけちゃま、きょうもいろんなことがしれたけろ~!」みたいなかんじの一言である。Eテレの子供番組で、コレを使うようになったか!と、変な感慨なのだ。
コレっていうのは、講義課題のなかの感想コーナーで頻出して、どうにも落ち着かなかった「~が知れた」「~だということが知れてよかった」表現である。はじめ一種の方言かと思っていたけれど地域限定というわけでもないらしい。おそらく私なら「知ることができた」「知識が得られた」、あるいはもう少しカジュアルでいいなら「わかった」と書くところで、なんでかこの「知る」に直接可能の助動詞のラ行を付けたものには違和感があった。
少し補足すると、私は言語学の専門家じゃないし、日本語の先生とかでもない。マナー講師よろしく言葉尻ひっつかんで上に立とうとか思いません。嫌いな表現は好きな表現と同様たくさんあるけれど、言葉は変化するものだという前提で、「他ではなくこの表現を使うことで何を言おうとしているのだろう」と考える。
知るに可能の助動詞を直付けすることへの違和感には、can knowと言わないとかknowだけでやや可能のニュアンスで使うことがあるとか、少し関係があるかもしれない。でもknowが「知っている」状態を指すのに対して「知る」自体は自分の動作の動詞だ。比較対象として、「わかる」の場合は多分、「知る」よりも自分に心理的に近い領域を対象にしていて、しかも、少し操作や解釈を経て「理解する」という動作になる。そこには時間の幅があって、自分のアタマや心の能力の介在も重要になってくる。現在の口語では「わかる」「理解する」には幾分「賛同する」ニュアンスも加わるかもしれない。
一方、「知る」対象は、客観的な事実や、歴史上の出来事や、変わった作品や、便利な概念、いわば乾いた情報である。対象が情報であれば、理解できるとか賛同するとか関係なく、「知っている」か「知らない」かどちらかであって、残酷に二分される。ここでの問題は、その情報にたどり着けるかである。つまり、「知らない」から「知っている」への飛躍は、自分の「知る」動作というより、自分が情報にアクセスすることを可能にした本なり先生なり友達なり、他者が大きな役割を果たしている。
「けけちゃま」は、おともだちの質問があって、パートナーのおにいさんおねえさんからの情報があって、色々なことを「知れる」。情報へのアクセスを可能にした諸々への謙虚な気持ちが、「知った」でなく「知れた」と言わせるのだろうと思う。そして、その「知識」は自分自身にはあまり身近なものではなく、積極的にわが身に関連するものではない「客観的な情報」だという思いが、たぶん学生さんにとって「わかった」ということを「おこがましい」と感じさせるのじゃないか。でもって、「情報を得た」「知ることができた」ではなく、一段日常的な「知れた」を用いることで、ひょっとすると情報提供者に対しては親近感を示しているのかもしれない。(で、近頃あまり見なくなったのは、私が年を取ったこともあってもう少しみんな硬い言葉を使っているのかもしれない)
そんなこんなを考えると、イマドキの学生さんの、人当たりがよく、謙虚でうまい距離を保つのが上手な「いい子さ」と、検索能力次第で正確な情報へのアクセスが左右される、ネットの時代の知識のややこしさが、色々とあらわれた表現なのではないかと考えたりするのでした。