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2013/07/22

ニョロニョロ回想

 鰻に対する特別な思い入れとか御馳走感覚というものは、松茸の香りのそれと同じで、基本は後天的なものなのではないかと思う。
 私は、自分の食べ物全般に対する卑しいくらいの執着と比べると驚くほど、鰻がどうでもいいのだ。母がもともとあまり好きでなかったようで、家で鰻を食べた覚えはほとんどない。ウニや生の魚なら休日に二時間ドライブをして食べに行くこともあったし、祖父母を経由して中身の詰まった蟹や塩焼きしただけでかりっ、ふわっ、じゅわっ、とろっが全て楽しめるような魚が届いた。記憶の中でぴちぴちと(今なら冷酒の入ったお猪口を伴って)泳いでいる魚介の中に鰻の姿がない。大学に入って、七月にわざわざ家族分鰻を買って食べる人々がいることを知って驚いた。
 そんなわけで、名古屋のとある名店でひつまぶしを食べたときにも、汁かけごはんファンの私はそれだけで狂喜したものの、ちょっと味が濃いのが気になって、なんだか感動が薄かったのは、きっとあの場に鯛の漬け茶漬けがあったらそっちの方に惹かれただろうなんて思ってしまうのは、多分その鰻的教養の欠如が問題なんだろーなーなんて思ってしまったわけである。
 ただ、茶道部で今日庵で出して頂いた梅の井のうな重はちょっと別格だったかもしれない。塗りのお重を開けると発光しそうな錦糸卵が敷き詰めてあって、その下には小さく切られた鰻、味のしみたご飯。箸でそっと崩しながら、ふわっとした卵とほとんど同じくらいに軽い口当たりで、噛むとじわっと味が広がり、つるんと時折ゼラチン質が舌に楽しいけど全く脂っこくないのを、ほのくらい畳に並んで正座し、一言も口をきかず一度も箸をおろさず無音の内に食べる(というのが稽古の時のローカルルールだった)。それもまた、別の場所では違う味になってしまいそうで、お店に足を運んだことはないのだけれど。

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