先週半ばを過ぎたあたりから喉が痛く、金曜午後には喉の痛みに鼻づまり、鼻水、咳、頭の重さと諸症状が加わって風邪ひき真っ盛りといった様子だった。週末はもともと予定がなかったことに甘えておとなしく過ごしつつ、熱が出ないなんてなんてラッキー、なあんてのんきなことを考えていたものである。
月曜、相変わらず弱っているので遅めに出た。
午後の仕事を半分終えたところで、おやつ休憩をしながら、あれ本当にこれピザまんなのかよ、と齧りかけのピザまんの上に書かれた「ピザ」の焼き印を確認した、ような気がする。夕方、頭痛がしてきたけどもう少しやることがあったので、インスタントコーヒーを投入。風邪ひいて鼻詰まってると本当にコーヒーがマズイ。それだけで気分が鬱々としてくるってものだ。
という感じで、思えばすでにちらほらと症状が出ていたのだが、おかしいと気付いたのはその日家に帰って台所に立ってからだった。半分使って切りっぱなしのまま放置していた南瓜(!)をいい加減何とかしようとみたら、切り口にうっすら白い糸が引いていらっしゃる(!!)。カビか。幸い長めの南瓜だったので反対側から少し切ってみるとこちらは見た目は大丈夫。でもやっぱりかび臭いかしら、と鼻を近づけると無臭。試しに明らかにカビの生えたほうを匂ってみても、不思議と臭いがなかった。カビってこんなんじゃないはずだ。まあ、いっか、と明らかに大丈夫そうに見えるものだけを選り分けて鍋で火を通し、目分量で酒・醤油・みりんを入れて味付ける。
そうしながら、この時点で面倒になってしまったし胃の調子もそんなによくないので、白だしをちょっと溶いた似非おだしで野菜を煮込んで卵でとじ、ご飯にかけてスープかけごはんにすることに。最後にショウガのすりおろしとごま油をかける。
ここでだった。
一口食べて、ショウガとごま油と出汁の味が全くしないことにはっきりと気付いた。台所に戻って南瓜の味見をする。なにやらあまじょっぱい感じがするけれど美味しいのかわからない。なんだこれ。
すでに温かいものを口に入れて鼻は詰まっていない。というか、鼻が詰まっているからといってショウガやごま油のにおいから逃れられるものではない。試しにショウガを齧ると全く味のない、ただの歯ごたえが答えを返した。いや、わずかな塩辛さや刺激は分かる。じゃあ問題は…。私はティッシュをとって、香水を吹き付けてみた。それを顔に近づける…!何も香りがしなかった。エッセンシャルオイルも、キムチも。何てことだ。
香りが全くしない、という以上に驚かせられたのは、香りを感じられないと、味が全く違ったものになることだった。ワインのテイスティングで、口の中のワインの香りを喉を通して嗅ぐという動作を行うが、ああいった喉の中からの香りは、どうやら味覚とほとんど一体になって味の感覚を作りだしていたものらしい。それがない味は、ひどく単調で、彩りを欠くものだった。歯ごたえと、塩辛さや甘さが、別々の物質的な刺激として入っては来るが一向に焦点が合わないような、和音として聞こえてこないような感じで、食事といえるのかもよくわからないような気分で、とりあえず目の前にあるものを胃の中に収めた。
考えてみると、嗅覚というのは五感の中でも重要性では割合と低い位置付けのような気がする。視覚や聴覚を失うことを考えた時の圧倒的な不便さや、味覚や触覚が機能しなかったときに考えらえる直接的な危険に比べたら、においって、どうも切迫感に欠けるのだ。
けれど、鼻をつまんだり、鼻が詰まったりした時の感覚とは全く違い、嗅覚が効かない状態では、ものを食べることの意味なんてほとんど消え失せてしまうように思われた。
窓を開けて外の空気を吸う。冬の澄んだ空のにおいがない空気は、湿度と密度と温度をもった、正体不明の塊のように入ってきて気道を摩擦した。
月曜、相変わらず弱っているので遅めに出た。
午後の仕事を半分終えたところで、おやつ休憩をしながら、あれ本当にこれピザまんなのかよ、と齧りかけのピザまんの上に書かれた「ピザ」の焼き印を確認した、ような気がする。夕方、頭痛がしてきたけどもう少しやることがあったので、インスタントコーヒーを投入。風邪ひいて鼻詰まってると本当にコーヒーがマズイ。それだけで気分が鬱々としてくるってものだ。
という感じで、思えばすでにちらほらと症状が出ていたのだが、おかしいと気付いたのはその日家に帰って台所に立ってからだった。半分使って切りっぱなしのまま放置していた南瓜(!)をいい加減何とかしようとみたら、切り口にうっすら白い糸が引いていらっしゃる(!!)。カビか。幸い長めの南瓜だったので反対側から少し切ってみるとこちらは見た目は大丈夫。でもやっぱりかび臭いかしら、と鼻を近づけると無臭。試しに明らかにカビの生えたほうを匂ってみても、不思議と臭いがなかった。カビってこんなんじゃないはずだ。まあ、いっか、と明らかに大丈夫そうに見えるものだけを選り分けて鍋で火を通し、目分量で酒・醤油・みりんを入れて味付ける。
そうしながら、この時点で面倒になってしまったし胃の調子もそんなによくないので、白だしをちょっと溶いた似非おだしで野菜を煮込んで卵でとじ、ご飯にかけてスープかけごはんにすることに。最後にショウガのすりおろしとごま油をかける。
ここでだった。
一口食べて、ショウガとごま油と出汁の味が全くしないことにはっきりと気付いた。台所に戻って南瓜の味見をする。なにやらあまじょっぱい感じがするけれど美味しいのかわからない。なんだこれ。
すでに温かいものを口に入れて鼻は詰まっていない。というか、鼻が詰まっているからといってショウガやごま油のにおいから逃れられるものではない。試しにショウガを齧ると全く味のない、ただの歯ごたえが答えを返した。いや、わずかな塩辛さや刺激は分かる。じゃあ問題は…。私はティッシュをとって、香水を吹き付けてみた。それを顔に近づける…!何も香りがしなかった。エッセンシャルオイルも、キムチも。何てことだ。
香りが全くしない、という以上に驚かせられたのは、香りを感じられないと、味が全く違ったものになることだった。ワインのテイスティングで、口の中のワインの香りを喉を通して嗅ぐという動作を行うが、ああいった喉の中からの香りは、どうやら味覚とほとんど一体になって味の感覚を作りだしていたものらしい。それがない味は、ひどく単調で、彩りを欠くものだった。歯ごたえと、塩辛さや甘さが、別々の物質的な刺激として入っては来るが一向に焦点が合わないような、和音として聞こえてこないような感じで、食事といえるのかもよくわからないような気分で、とりあえず目の前にあるものを胃の中に収めた。
考えてみると、嗅覚というのは五感の中でも重要性では割合と低い位置付けのような気がする。視覚や聴覚を失うことを考えた時の圧倒的な不便さや、味覚や触覚が機能しなかったときに考えらえる直接的な危険に比べたら、においって、どうも切迫感に欠けるのだ。
けれど、鼻をつまんだり、鼻が詰まったりした時の感覚とは全く違い、嗅覚が効かない状態では、ものを食べることの意味なんてほとんど消え失せてしまうように思われた。
窓を開けて外の空気を吸う。冬の澄んだ空のにおいがない空気は、湿度と密度と温度をもった、正体不明の塊のように入ってきて気道を摩擦した。
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