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2016/12/02

飛べない浄水器

 先日備前に行ったときに(晴れのくにで土のうつわを)、面白いものを買った。
 「備前玉」といって、その名の通り、直径2cmちょっとくらいに焼しめられた球状の陶器である。備前は、粒子の細かい素焼きなので、備長炭のような要領で水を浄化する。それでコーヒーやビール、お茶が美味しく飲めるのだが、この「備前玉」は、水を美味しくまろやかにする機能をどういう器でも楽しめるようにしたものである。備長炭のように使えるし、もっと長持ちする。「器」というと限定的だが、薬缶でお湯を沸かすとき、炊飯器でご飯を炊くとき、あるいはお風呂に入れてもいいらしい。
 ひとつ100~200円とお安いので、実家にも送ろうと思っていくつか買っておいた。この度、実家に郵便を送るついでに同封することに。仕事場に買い置きのレターパックライト。ポストに投函でき、ある程度中身が入れられ、結構早く着く。ただ、品名をきっちり書かなければならないらしい。
 果たして「備前玉」でわかるだろうか、と不安に思ったので、浄水機能のある、陶器のアイテム・・・と「陶製浄水マシーン」と書く。これでわかるでしょ。

 ところが、この浄水マシーン入りのレターパックライトは、飛行機に乗せてもらえなかったらしい。理由は危険物の疑い、問題箇所は「品名」。
 うーん?一日遅れて届いたレターパックライトを受け取った母上は「陶製浄水マシーンなんて絶対怪しい」というけど、怪しいかねえ。マシーンがいかんかったのだろうか?「陶製浄水器具」?「陶製球体」?爆発しそうかな?それをいうなら「備前玉」もなにやら不穏な感じがするけれど。空気中の水分まで浄水してまろやかになっちゃいそうで脅威だと判断されたのだろうか?「備前国特産陶器製小型球状浄水他有用非爆発物」?
 関わった係員の方には、手間をかけさせてしまって申し訳なかったですが、なんと書けばよかったのかこれは、ちょっと難しい問題である。だって、「雑貨」じゃだめだもんね。

2016/11/27

温泉ぼこぼこの街で矢鱈ふだん使いなアートに会う

 初の大分県は別府でございます。

 鉄輪(かんなわ、と読む)温泉。地面から噴き出す蒸気が、厚く垂れこめた雲と呼応している。何かが起こっているとしか思えない。なんか地球が生きているのを実感する光景である。
 道路の横の溝なんかも、流れている水が温かいからか、白い蒸気を出していて、歩いていてもほのかに暖かい。


 湯と気体が一緒に噴出する「地獄」は、鉄輪の地域いたるところにある。

 我々は鉄輪の大衆演劇が見られる温泉宿に泊まり、次の日「目 in Beppu」という市庁舎を舞台にしたアートイベントのツアーに参加した。今回は別府経験者と一緒だったので、かなり最初から、優等生な観光ではなかなかたどり着けないような面白さを追求することが出来た。
 加えて、友達の友達の友達の方が、鉄輪のディープスポットに連れて行ってくださり、さらに別府市街地に点在する渋いお店やアートイベントの見どころを紹介してくださった。丁度雨のひどい時間帯に、車で案内して頂けたのは大変にありがたかったし、それ以上に色々と学ぶところ大でした。以下、その時教わったものからいくつか。

 これは、98℃の源泉をちょうどよく冷ますための竹を用いた装置。近寄りすぎると危ない。

 日本最古の木造のアーケードだとか。


 竹瓦温泉は古くからある有名な温泉で、近くはちょっとした風俗街になっている。
 

 建物が恰好いいんだ。
 古いのも新しいのも、モダンなのもレトロなのも、小さ目なのもスーパーなのも、あらゆる温泉が市街地のいたるところに、コンビニなんて目じゃないくらいの間隔であるようで、しかも100円とか200円とかで入れる、常識を超えた世界であった。
 
 ここ「末広温泉」には入ってみた。「別府町じゅう文化祭」ベップ・アート・マンス2016の一環で、大平由香理さんという作家さんが、壁にぐるりと由布岳を描いたのを観ながらお風呂。壁のタイルの淡いピンク色や他の褪せた色合いと上手く響き合う温かみのある色彩で、かなり全体を考えて構成され、描き込まれていて、いい空間だった。中央の湯船といくつかのシャワーだけのごくごくシンプルな温泉で、入り口の箱に200円入れて、鍵で入り口をあけて、入る。常連客と思しいおばさまが温度調整を教えてくださる。
 ここの作家さんはじめ、若い作家が滞在制作しているアパートメント。

 ここは古い建物だから仕方がないのかもしれないけれど、他のところも含め、概して室内が寒い。温泉に入れば冷え切ることはないからいいのだろうか?と勝手に推測する。
 別の滞在作家の展示は、別府駅のすぐそばの市場の一角にあった。


 アートイベント、というとなんか大仰なんだけど、「町じゅう文化祭」のノリだと気軽に参加しやすいのかな?滞在アーティストの他、もっと趣味の制作っぽい人も店開きしていたり、落書きコーナーで何人も一心不乱にチョークで落書きしていたり、あるいはアパート住人の人とすごく仲良く関わって自分もちょこちょこ関連する制作をして楽しんでいる人がいたり、なんかこう普段使いで面白いと思った。

 駅の近くにうっかり岡本太郎の壁画がある。

2016/11/23

片隅だけの世界に。(「この世界の片隅に」で考えたこと 下書き)

…read more以降はネタバレがあるかも。


 「この世界の片隅に」を隣町で観てきた。
 本当に画が綺麗で、つくりが丁寧で、噂に違わず主演の声の同調が半端じゃない。他の人の感想から期待値は相当上がっていたけど、心から素晴らしいと思ったし、随分と泣かされてしまった。そしてまた、ひどく残酷な映画だという感想をもった。
 ここに描かれていた残酷さは、ただ失い続けることじゃない。というより、失い続けながらも、失わずにすんだものや新たに得られたものとともにあるときに、亡霊のように失わずに済んだかもしれない選択肢がついて回ってくることだ。何も選び取ったようには思えない道であっても、実は何かを捨てて何かを選んでいるのであり、意識的にでも無意識的にでもいずれかの道を選ばされているのであり、「ひとつ違えばこうだったかもしれない」が延々と積み重なっていく。失われたものを懸命に繕おうとして、それでも埋め切れない隙間からあちこちに、他でありえた世界へのほころびを垣間見ながら、人々は「よかった選択」の方をみて明るく日常を守ろうとしていて、その哀しさはやりきれない。

枯れ葉を鳴らして山を走る

 一瞬眠りが浅くなった瞬間に、いつもなら意識がはっきりする前に再び眠るところ、一瞬の間の後に災害速報のアラームが鳴って、完全にこちらの世界に戻ってきてしまった。
 近頃地震が多い。場所が場所で津波の警報まで出ているので、心が騒ぎ、一通りニュースをチェックしてもまだ六時だ、目は覚めたが頭が重い。週末ずっと出勤で休養が十分でないのが顔とか身体とかに出ていたところだから(睡眠がいつもより足りないと体重増える)、思い切って午前はゆっくりすることにする。

 何もランデブーもなかったので(これ、たまにぎょっとされるけど、面会の約束や会議の予定、待ち合わせ、はたまた病院の予約など、相手がいて時間が決まってる予定全般に仕える便利なフランス語)、そのまま振替休日を取ることにして家で作業していてもよかったのだが、結局出ることにしたのは、あまりに天気がよかったから。
 実際に、この時期、学校のある久山田の里山はトンネルを出たところから綺麗に黄金色に色づいていて、晴れると高い空との対比が美しいのだ。

 今の仕事場に欠けているものは少なくないし、この街にもないものがたくさんあるのだが、水源池を囲む山の環境は、他の場所では得難いと思う。家と田んぼと、水源池と雑木林を抜ける一車線の道を、登って、ゆっくり下って、最後にまた登る4kmのルート、途中には見事な紅葉の庭や柿の木もある。この道を、ここ二年くらい、結構一人で走ったり歩いたりしている。というか実際のところ、走ったほうが楽なんじゃないかと思うような速さで歩いたり、歩いたほうが速いんじゃないかと思うような速さで走ったりしている。日が沈むと危ないし、真昼間では紫外線が怖いから、大体、出発は日没の一時間前だ。そのくらいに、ひと段落して少し落ち着ける日が週に一日くらいはある。天候が悪くなく、気分転換してもう少し他の作業をしたいと思ったら行くことにしている。季節によって彩りも匂いも変わり、今は黄色の落ち葉がカラカラと音を立てていて、果物のような甘い香りや、堆肥のにおいがする。ほどほどに民家や人の気配があるけど(一応携帯を持っていくし、動物と遭遇しないように、鈴のように鍵をならす)、人目を気にしなければならないほどではない。こんな散歩コースが手にはいるなら、首都圏の人ならどれくらい払うだろう、と思うくらい。
 そんな場所で、私は往生際悪く、頭良くするには運動に若くはなし!とか、最近増やしてしまった背中の肉!とか考えながらうごうごするわけだが、うまいこと走れる時には、「走っているのが当然の生き物になったような感じ」を覚えることもあり、うむ、これは気持ちいいぞ、と得意げににまっとしたりするのである。

2016/11/12

オーブンを働かせる

 これからしばらく土日は空かないような気がしたのでもったいなくて今日はひたすら家でダラダラ(とプロジェクト続きをしてたのだけどさ)、そうだ、かぼちゃの残りをお菓子にしよう、と思って夕方から買い物に出て、百均で紙の型を買って、スーパーでクリームチーズとか卵とか。ついでにタラの切り身が安くておいしそうだから鍋にしようっと。
 レシピは以下を参考に。
かぼちゃのクリームチーズケーキ
 いくつかレシピを見た結果としては、ベーキングパウダーも使わず卵を泡立てもしない、かなり原始的な焼き物(いわばたまご焼きの応用)っぽいので、g単位でレシピに厳密を期すことも必要なかろう。
 南瓜がたくさんあったので、結局以下のぐらいの分量で。
かぼちゃ300gほど
クリームチーズ150g
グラニュー糖70g
卵M 2個
無調整豆乳200ml(これはレシピによっては牛乳のこともあり、生クリームのこともある。結構一人で食べちゃうだろうからヘルシー志向にしといた)
薄力粉30g

0, オーブンは170℃に余熱。
1, 南瓜はレンジにかけて皮を取り、適当に切って大きめのボウルに入れてフォークで潰す。卵を一個ずつ加えてとろっとさせる(混ぜるが泡立てないこと)。
2, クリームチーズは少しレンジにかけて、とろっとしたところを泡だて器でなめらかにし、そこに砂糖を加えてさらに滑らかに。
3, 室温に戻してあった豆乳を適当に1および2のボウルに加える。
この華麗なる適当さによって、二つのボウルの中身の「とろみ」をなんとなく同じような感じにすると、4で混ぜやすい。
4, 1,か2のうち大きなボウル(私のところでは1)に、小さなボウルの中身を半分ずつ入れて、ざっくり混ぜる。(まだ小麦粉が入っていないから、ボウルについてるクリームチーズ×砂糖は味見OK)
5, そこに小麦粉を加えてさっくり混ぜる(泡立てない)。
6, 型に入れて170℃で、まずは45分、様子を見てプラス10分ほど焼いた。

5で、横着をして小麦粉を篩いにかけなかったので、ちょっと白い斑点が出来てしまったけれど、まあ、材料から想定する以上のおいしさにはなったのでいいことにしましょうか。

ちなみに、タラはコチュジャン使って少しチゲ鍋風にして食べた。美味しい。

2016/11/07

偽物疑惑が生じるくらいに

 今日は朝っぱらから一日本格的に動いた。私の親戚友人が見たら、あれは奴ではない、といいそうなくらい、尾道にとどまっている休日にしては活動的だった。
 朝から、なかた美術館のお散歩ワークショップで、旧高橋玄洋邸および長江界隈の山手を探検。高橋玄洋氏は60-70-80年代にすごい視聴率を叩き出した脚本家の方だが、終戦後からしばらく尾道に住んでいたりこの街にゆかりが深い。彼についてリサーチして美術館で展示もしている作家の横谷奈歩さんのガイドで、旧宅に残っているアルバムやら蔵書やら原稿やら日記やらを探る。お父様ののこした日記とか、大学時代のノートとか、めっぽう面白い。繋がりがリアルに感じられる歴史を、モノを頼りに見るのがわくわくする体験だった。参加者のご婦人など、アルバムにお知り合いが登場したりするのも盛り上がった。山手は一つ筋を間違うと同じ場所にはたどり着けないので、何度も歩いた道のすぐそばに初めての場所があったりする。

 その後、インドカレーでランチをして(長江通、いつも行列のラーメン屋のちょうど向かいにある喫茶店風の店構えの「ますや」、出てくるカレーは結構ハードにインドで気に入ってる)、駅前からそのままバスで大学祭へ。物販を冷やかし、お茶席に入れてもらい、お笑いを見ようと思ったけれど芸人さんの到着が遅れて混みそうなので、ひとまず下山。
 というのはもう一つのミッションがあったからで、車を取りに家までもどってから、オーブンレンジを買いにヤマダ電機へ。前日に一通りの説明を受けた結果一番気になっていた、予算内なのに、はるかに越える機能と庫内体積を誇るモノを購入した。これで異音のする13年物のオーブンレンジとさらばできる。一応補足すると、元はジョンストンズのカシミアストールを余裕で上回る値段だったのが、ストールよりも断然安くなっていたのである。この冬は、確かなぬくもりはオーブン料理から確保することにしよう。ただ、先代の置いてあったスペースでは足りないので、考えた末に、ニトリで天板と足を選んで簡単に組み立てられるデスクを買って帰った。台所に机というのも変な話だが、なによりオーブンの底面積に合致した大きさが選べて、手間もほとんどかからず、値段もリーズナブル、下手にレンジ台とか買うより、ただの台だったらカウンターみたいに使えるし、別の仕方でも使えるし、と決めたもの。

 帰宅してからは、3時間近くかけて台所のリフォームとオーブンレンジのインストールを済ませた。今までの無印良品のラックを一つ解体し、一つは段を変えて、場所が出来たら机を組み立てて、レンジを載せる。丁度、娘とクッキーをこねたりできそうな(娘はいないけど)作業台もできて、よい感じである。

 さすがに重労働で疲れ切って(まずオーブンレンジを車から降ろして家に入れ、箱から取り出して台に乗せるのが重かった!)、加熱用牡蠣を白ネギ、エノキ、豆腐、生姜と一緒に味噌鍋にしてあったまりました。レンジの活躍は明日から~!

2016/10/31

血塗られたジュエリーとか、アドレナリン中毒治療とか。

 季節の変わり目は体調を崩しがちだし、寒さに加えて日が短くなると気持ちも弱りがちになる。ハロウィンとかヴァルプルギスとか、お祭り騒ぎで区切りをつけようというのは合理的だ。日本で4月30日になにかやっても意味はないけど、10月31日は、ぐっと気温が下がるし、後期が始まって少しだらけるあたりでちょうどいい。
 実家から届いた立派なかぼちゃの1/4で、北海道の誇る「かぼちゃ団子」を作って振りまいたりしてみた。今日は重さにしてかぼちゃの1/4ほどの片栗粉を使用。あれちょっと食べにくいのと、出来立てじゃないと固くなるのが難だな。丸っこく整形して、砂糖醤油はフライパンで絡めて、竹串に挿すとかがよいのかもしれない。そもそもお洒落なパンプキンパイとかを作ればよかったかもしれない。でもパイじゃかぼちゃはリンゴに勝てないんだよねえ。


 チェコのガラスビーズで作った染血のチョーカーと流血のピアス。壊して再利用する。ピアスの金具はちょっとよいものなのでパールとかつけようか。


 最近また分野問わず本を買いあさっては読み漁っている。
 上記は、少し恥ずかしい邦訳だけど(How to write a lotそのままで、「たくさん書く方法」とかでよかったのに…)、締め切り直前性アドレナリン中毒(*1)の治療のための福音書なのではないか。私生活を守りつつ、期日が来る前に、一定以上の水準の仕事をシステマティックに仕上げていく方法が書かれている。中毒治療なので簡単ではないけど、それなりに頑張ることで幸せな未来が思い描ける気がする。

ほほう、と思ったところ、引用すると…。
 「スランプについて(…)行動を描写しても、描写された行動の説明にはならない。スランプというのは、書かないという行動以外の何ものでもない。」

 「目標が達成出来たら、自分にご褒美をあげよう。(…)ただ、しっかり書いたからといって、見返りとして執筆予定をさぼるというのはあまりにばかげている。ゆめゆめ、執筆しないことをもって執筆の報酬としないこと。執筆できた見返りにスケジュールを放棄するのは、禁煙のご褒美として煙草を渡すようなものだ。」

(心正しき皆様にはふーんだ、別に普通じゃん、と思われました?何を隠そう、私、患者だからね。)

 村上春樹とか森博嗣とかそういうすごい小説家の話や、神のごとき少年漫画家の先生方のスケジューリングの妙というのも、この一冊を間に挟んでからだと、少し現実的に思える気がする。

(*1)締め切り前に追い込まれると、今まで忘れていた集中力とやる気が漲り、恐怖に駆られて勢いで仕事をこなす。逆に、余裕があったら気持ちがゆるんで、仕事にもゆるみが。別名「ギリギリパーソン」。
白状すると、私はまさにこの症状で、期日前の恐怖と緊迫感を、間違いなく「快」の刺激として処理してしまっていると思う。今までも、あまりにスリル満点で精神的にしんどいことと、人に迷惑をかけがちなために、何度か脱却を試みてきたけどなかなか難しい。最近は新たに、体力的にきつい(肌が!髪が!むくみが!内臓が!)というのっぴきならない事情と、これから長く続くであろう「書く人」的人生、いちいち罪悪感をおぼえずにプライベートを謳歌したい!という、もう少し花模様な理由から改革に踏み切ることに決めた次第。
ちなみに、自分の性格的にはこの最後の理由は効いてくるはず。いつも「健康のために」とか「家計のために」お弁当作ろうと思ってもちっとも続かないけど、この時期は「今ある米を食べきって新米にありつくため」とか「いつも美味しい新米を食べるため」に凄い勢いで弁当を作れたりする。

2016/10/15

晴れのくにで土のうつわを


 見事な秋晴れに芳しい風。
 ちょっと暢気なスタイルの山に似合う稲穂を新幹線が揺らす、岡山県は伊部の里です。
 
 恵みの秋は、私にとってはなにかしらん物欲の秋でもあり、つい先日は新幹線の時間を待つ間、伊勢丹のスカーフ売り場でジョンストンズのストールを物欲しげに眺めていたら、「ぜひ巻いてみるだけでもいかがですか?ホントにいいんですよ~」なんて嬉しいことを言ってくださるので、ついつい、羽織ってみたりして、そうするとやっぱり凄くって、全身の細胞に向かって訴えかけてくるのである。異音がする15年物のオーブンレンジは多分もうちょっとあのままでも大丈夫だから汝ワシを買え、と。こちとら18世紀以来の伝統がつくった間違いない逸品、そんじゃそこらの人間よりずっと確実な安心と保温効果を約束してやる、と。ひゃあ、全力で振り切って改札通って逃げてきたけど(勿論買えないですよ!)、しばらくはソワソワしちゃっていたもの。嗚呼、確かなぬくもり、ほしいな。


 話は変わって今日はポンコツで山陽道をのこのこと、備前焼祭りを訪れたのである。
 実は、肌触りと色のよい布切れと同じくらいに私の心を躍らせるのが、ある種の焼き物であるらしい。
 土地の土に注いだ水と火がつくる奇跡をそのまま見せる肌合い、厳しく洗練された輪郭にほんの一滴の遊び心が目配せしているような形態、そして飲み物や料理をおいしく引き立てる強さ。どれをとっても備前は好き。
 
 入る?どうする?とふらふらっと立ち寄った直売店で、シルエットから惹きつけられたコーヒーカップとソーサー、近くに寄るとやっぱりとても素敵だから困る。それにお値段は隣のC&Sの二倍以上…(ところかまわずよくある事態)。試みに触れると手指に吸い付くようにすべらかで、灰褐色の縁から丸みに添うように赤みを帯びた肌は(Kissed by fire、といいたくなる)角度を変えるとうすく鈍色に金属的な光沢を帯びる。もう少し肌理の粗いソーサーとの対比も申し分ない。でも待って、並べてみるから違うけれど、家で普段使いにするなら隣のものだって十分素敵ではないかしら(それに十分以上に予算内だし)?いや、でもやっぱりこっちのほうが面白いし、なのに野暮ったさがないし…、とかなんとかうだうだと思っていると、チャーミングなおじい様が表れて、「こっちは僕が作ったんだけどね」と、私が当初目を付けたカップに如何なる工夫が凝らされているかを説明して下さる。絶妙すぎるタイミングで、こうしてみると、むしろこのカップに出会うために山陽路を上ってきたような気分がしてくる。降参。なんて幸せ、明日の朝ごはんにコーヒーを淹れるのが楽しみで仕方がない。明後日も、明後々日も、その次も、朝が来てコーヒーが飲めるってなんて素敵。桃蹊堂というところ、覚えておこう。

 ちなみに祭りは初めてで、高速の事故渋滞の影響で一時間ほどロスしてお昼過ぎにたどり着いた。有名な祭らしく、GWに行った萩焼まつりとは比較にならないくらいくらい人が出て、国道二号線は隣町から渋滞していた。規模もかなり大きく、一キロ以上の歩行者天国の両側に窯元の直営店が並び、駅前の特設会場では、各種窯元がブースを出して特売品を売り出しているほか、飲食の出店もあちこちに立っている。
 同行者の知り合いという窯元を訪れたら、なんとちらし寿司とおでんを振舞ってくれた。祭りじゃ!って感じがすごい。接待所にところせましと並んだ、大らかで豪奢な調度、備前でそろえられた器。
 特設の特別価格品も楽しいが、窯元直営店の売り物が全品20%オフというのがなんだかんだすごい気がする。道行く人が次々にお店に入っていくので、少し奥まった店にも気楽に入れるし、なんといっても上等なものも気負わずにゆっくり見られるので勉強になる。備前はほかの窯元より全体的に高額な印象だが、とはいっても茶道具とかを買うのでなければ全然法外というほどではない。雑貨屋でお気に入りの器を選ぶ感覚で、運がよければ職人さんとお話しをしたりしながら、一点ものを連れて帰ることが出来る。

2016/09/29

やること山積み×体調不良×雨=泣き言をいうぞ!

 金木犀の香りが秋の気配と濃密な焦りを運んでくる新学期である。
 なのに蒸し暑いし、移動していた関係で都合2週間ほど雨続きだし、散々。「今年も残り1/4」の焦燥感と夏の暑さがひと段落したころに一気にくる不調と九月末から雪崩を打ってくる忙しさのなかで、180°ポジティブに「さあ、日常に負けずがりがり研究しよう!」な気分になるためには、絶対的に素敵な秋の靴が必要だ。なのに雨のせいでおろせない。くぅ・・!

 それに加えて、なんか色々出かけたりしてる所為かあちこち体調不良なのだ。これが厄年ってやつ?
 目の瞼が夏の間ずっと荒れているようなかぶれているような様子だったのだが、悪化したところ皮膚科に行ったら、しこたま怒られた挙句に、しばらく化粧水およびマスカラ的な液状化粧品禁止を言い渡された。処方された薬のお蔭で荒れはすぐに回復したけれど、その所為か他の理由か、もともと奥二重の瞼がちょこちょこ二重になってしまう。マスカラした奥二重よりノーメイクの二重の方が余程「顔」的な起伏を呈しているのがなんか無力感をつっついてくるんだけどそれだけでなく、二重になると光量調節がうまく出来ずピントが合いにくくなるので、なんだか始終ぼおっとして頭痛がする。二重の人々は日々どういう秘密でこの問題に対処してるのかしらん?(あと本当にどうでもいいけど今さらプチ整形とかしたのかとか思われたりしたら嫌だなあ、などとまさにどうでもいい感じの不安が胸中に去来したりもするからさらに面倒)。
 先週末からは内臓方面がよくわからんイカレ方をしていて、微熱が出たり、眠りがよくないので疲労感が続いている。先日の暫定的な診断通りだったら、薬を飲んで二日もすればもっと元気になりそうなのだが、たくさん眠れていないからか、回復している感触に乏しい。詳細な検査結果をみて、かなあ、とちょっと不安…。内臓系の体調不良って、考え方が暗くなりがちなのが嫌だ。

 身体だいじに、ここのところは出汁とって和風の大人しい汁物とか煮物とか続きだったので、今日はキャベツをトマト煮にしてクスクスと食べている。
クックパッド|トマトとキャベツのチキンしちゅー
↑このレシピが秀逸で、安くいつでもある材料ばかりでアッというまに作れるし、ノンオイルなのに食べごたえあってアレンジも効いて重宝です。私はいつも茸をたっぷり加えて作る。

2016/09/15

果てしなくおだつ

 久しぶりに会議が何故かこんな九月の真ん中にあったんだけど、鬱陶しく煩わしいのと同じくらいの針の振れ幅で人と仕事をすることが無闇に楽しく思えてきちゃって、足元にはカープセールのお蔭で秋の新作なのに10%オフで買えたスウェードのちょっとクラシカルなパンプス、心が変な具合に踊った挙句に随分と調子に乗って阿呆な行為に及んでしまった気がするのである。たまのことだからいいとするかね。困るとすれば、自分にしては珍しい奇行が、その時たまたま遭遇したけれど通常なら稀にしか会わない人々の前で発生した場合、常時とっぴんぱらりの浮かれポンチを嗜む淑女とみなされても仕方がないのである。まア、自分を常識の側に置いてそちらから他人を判断するような詰まらない役を演じるくらいなら、晴れやかに多彩なる非常識の一端を担って奇行を繰り出したほうがそりゃあ面白いでしょうかしらん。

人間とはかくも必然的に気違いであるので、気違いでないとは、狂気の別のひとめぐりによって、気違いであるということである。――パスカル



(この妙な躁状態のもう一つの原因はGame of Thronesシーズン4の最後二つのエピソードが控えめにいって感動的だったことにもあるかもしれない。あまり時間が取れないからすごくゆっくりしたペースで視聴しているけれど、このままいくと私の2016年はこのシリーズドラマで記憶されることになりかねない。)

2016/09/07

予告風に、写真だけ。

 波照間から稚内まで、とはいかないまでも、去年大人しくしていた分、随分と色々なところに行った夏だった。沖縄の旅より、ちょっとだけフライング。


 サトウキビ畑の広がる丘から見下ろす海、なんでもなさそうでなんでもなくない眺め。写真ではわかりにくいけれど、ちょうど水平線を船が走っていく。


 恩納村付近で、真栄田岬から夕暮れ時の海岸線沿いの長い散歩。


 ダイビングのライセンスが無事とれたので祝杯。グルクンマチ(姫鯛)のバター焼き。素揚げした後、ニンニクと醤油を利かせたバターで焼いてある。マズいはずがない。


 美ら海水族館。どこもかしこもハイビスカス。


 魚は面白い顔に限る。


 君もなかなかやるじゃない。


 たまに目があったりする、チンアナゴ。


 こんな光景が潜ったときにも見えたので、改めて名前を知って、お気に入りを記憶に留めたりする。









2016/08/28

夏野菜パラダイス

 秋にしゃべる仕事のネタ探しのため、午後中かかって過去にヨーロッパの色々な街で撮った写真を整理していたら、すっかりワインが飲みたくなってしまった。街並の写真は料理の写真とかと一緒にプライベートのフォルダに入っているから、ついつい目に入るのだ。そこで、安い500ml入りのキャンティを手に入れて昨日仕入れた夏野菜とひとり晩餐。

 相変わらずフライパン一つで出来るワンプレート。あまり肉の気分でなかったので、肉っ気少な目だけど赤ワインに合うものを。フランスにいた時は、私の愛する豚小間がなかったので、「肉喰うぜ」って気分じゃないときは、厚切りベーコンとか加工品で味だして全然満足してたなあ。向こうも色の濃い野菜のおいしさと言ったらなかった。
 手前から、トルティージャになるはずだったジャガイモ入りのスクランブルエッグ(ここは大人しく小さなフライパンを出せばよかったのだ)、あくまでトルティージャのつもりなのでニンニクすりおろしを混ぜたマヨネーズを添えて。真ん中は名付けて「夏野菜パラダイス」、昨日買ったしし唐、赤ピーマン、マイタケ、そして「クララ」を、ニンニクと厚切りベーコンとともにオリーヴオイルと酒で蒸し焼きにして、香りづけに醤油。クララとは数センチサイズの小さな茄子の一種で、肌理が大変細かいため、油を吸わず、クリーミーな仕上がりが楽しめるという。へ、クリーミーな茄子ってなんぞ、と思ったけど、確かに成程とろんとしていて美味しいし、フライパンがカラカラにならないから使いやすい。皮もやらかい。ミートソースやチーズなんかとも合いそうだ。上にあるのはクスクスで、人参とレーズンとともにサラダ仕立てにしてみた。ミントかクミンが欲しい味だが、レーズンとバルサミコは流石に赤ワインと相性抜群。上二つは明日の弁当の分もできちゃって、皿一つ、フライパン一つ、耐熱ボウル一つで晩餐と弁当が出来る、一人暮らし万歳パラダイスである。

2016/08/27

観たものとか食べたものとか

 エアコンをつけっぱなしだと冷えるのが気になるけれど消すと蒸す。悩ましい季節だが、もう少しの辛抱で爽やかな秋がくるのだから、たいして文句もない。
 今日は久しぶりに道の駅巡りで大和郡和木にある「よがんす白竜」に野菜を仕入れに。
  アメリカのニュージャージーかどこかと姉妹都市だそうで、そこはかとなくアーリーアメリカンでこじんまりした建物。野菜は、しし唐、なす、トマトなどの夏野菜が種類も豊富でたくさん入って安い。他に梨や葡萄もあったが、こちらはそこそこ高級。
 野菜の他には、併設のレストランでピザを食べるのが目的だった。

 地方特産品のレンコンを使ったピザ。軽めのふんわり生地に、ごくフレッシュなトマトソース、ごろごろと角切りでレンコンがたっぷりのほか、赤ピーマン、玉ねぎ、バジル。野菜はフレッシュかごく薄い味付けでそのものの味が鮮やかだが、加えていい味を出しているのがサルシッチャ(イタリア風の皮なしソーセージ)と、忘れちゃいけないモッツァレラ。上の写真は特に加工もしていないけれど、彩りも美しいし、ミミにふりかけられた粉チーズに至るまでバランス完璧だった。
 行きは、北にどんどん上がって山陽自動車道の下道を大回りして御調から三原に抜け、国道486号線から432号線。帰りは486号線の途中で県道25号線に入って三原市内を経由。ところが、地図上で無駄がなさそうに見える県道25号線が、恐らく古くから南北を繋いでいたのだろうが、谷間の縁を這うように七曲りくねった山道で、かろうじて真ん中にきちっと線は引いてあったものの、がけ崩れかイノシシの大群など押し寄せたら一たまりもなさそうなスリル満点の道であった。最近はこんなのはトンネルにしてしまうので、まるで魚加工品を売った帰り道の古の商人のような気分が味わえて大層楽しかった。海が見えたと思ったらいきなり三原市内中心部に着いているのも面白い。

 それから、金曜に岡山県美で伊達政宗展。私は大河も見ていなくて戦国時代にはとんと疎いのだけれど、展示みただけど、「まーくん」萌え、俄然アリだと思った。何しろお洒落(しかも奇抜でモダン)で、書はほかに並んでいる人々のを素人目にも圧倒しているし(徳川家康の文字もあれはあれで可愛げがあるように思われるが)、詩歌はキレキレだし、キレキレなのに愛娘にひらがなでカワイイお手紙書くし、片目失明だなんてヒーロー属性、そりゃあ戦だって上手かったんじゃないかしらん。斯様に私本当に日本史は無知だし、家系図みてもさっぱりなので、展示品から想像を膨らませては感心するばかりであった。
 県美のそばにはいくつか美味しいご飯やがあるが、行ったことのなかった盛岡冷麺の店に入ってみた。こうなったら東北で攻めようという魂胆になったのである。しかしこれはちょっと失敗。頑張ってイオンまで戻ってブルターニュのガレットにするか、その辺のインドカレーでも食べとくんだった。まあ、美味しかったんだけど少しぬるくて、そういうものなのかな?とにかく暑い日だったし。となると、昼過ぎの暇になった頃合いだったのにお客さんの出て行ったあと、茶碗下げるときにテーブルを拭こうとしないのが何となく気になり、お洒落なカフェ風の明るい照明に無垢材っぽいテーブルだったので座っている目線だとスープがこぼれているのが見えるのだが、料理出す方ってあんまり気にならないものだったっけ、などと考え事をしていた。

2016/08/22

夏休み

 少し間があいてしまった。その間にいくつか緊張する出来事があったり帰省したりして、夏休みっぽい夏休みにもそろそろ飽きてきたところだ。今日は少しましになったが(尾道で目覚ましがなるまで寝ていられたのは一か月ぶりくらいじゃないだろうか)、ここ数日の暑さときたら、21時を過ぎてもお湯の中にいるようで本当にまいってしまう。

 そういえば今年は久方ぶりに本物の花火を間近で見た。場所取りのようなことはしなかったから、密集した建物と人だかりの合間をぬって、だが、かなり近くから。
 いつも花火大会の季節になると美しい写真や動画がネットにあがるけれど、花火の(特に)写真と実物の花火は全く別のものですね。綺麗に撮影された写真の、緩やかに放射状に広がる光線とは色も形も全く違う。花火はどっちかっていうと時間芸術なんだろう。目玉のプログラムとして「音楽花火」なるものがあり、大音量の録音に併せてスターマインが打ち上げられるので、かなり盛り上がる。ただまあ、やっぱりスピーカーを通って割れた音楽はしっとり花火の愉しみにはやや邪魔でもあって、むしろBGMなしのスターマインのプログラムで、視覚的効果だけでなくリズムや盛り上がりをきちんと音楽的に組み立てるのが大事なんじゃないかなあ、などと考えていた。好みは変わるもので、小さいころは断然ガンガン打ち上げられるものがよかったけれど、近頃は雑なスターマインよりも早打ちに魅かれる。

 先日は、春に一度訪れた弓削島の商船高専裏手の海水浴場に寄ってみた。松の木で縁どられた小さな砂浜には近くの親子連れや水泳教室風のグループなどがちらほら。シーズン中の土曜でも鄙びた風情が変わらず、よい雰囲気の場所なのだ。
 海月が増えつつある近頃だと、水遊びは海より川のほうがお薦めだというので、今度は北に行ってみたいな~。

2016/07/11

反省

 再びの低気圧との戦い。
 加えて、昼に流しそうめんをちょろっと食べたら変に食欲が増進されてしまって、学食で唐揚げ定食を半ばムキになって完食。それがあかんかった。
 「昼ごはんは食べ過ぎないこと」
 大事なことだから今度朱書きして仕事場のデスクの前に貼っておこう。
 「おにぎりとお味噌汁で十分」
 午後三時間くらいはあらかたのエネルギーを消化器系に持ってかれた気がする。
 本当はおにぎり握って「味噌玉」ともっていけば話はやいんだけど。

2016/07/09

私たちはもっとわがままにならなければ パートII

 ここのところ、溜め込んだ日本語の本を同時並行で読んでいて、おうち時間が充実している。

 けれど、こんな雨の日の金曜日には、ちょっと照明を落として、弓削の塩とニンニクで軽く焼いた薄切り肉と茄子と芋に焼肉のたれをぽっちり(嗚呼、弓削塩とかいってて台無し!)、近頃のとっておきギルティ・プレジャーである『ゲーム・オブ・スローンズ』の続きを流してキット・ハリントンの巻き毛と眉と目の間隔の三次元的な妙を鑑賞しながらハイボールを傾けたりするのもよいもの。

 随分前から私の意識はもうサバイバル志向になってしまって、国や法や政府がろくでもないときに、いかに小市民である私たち個人の自由と幸福と尊厳を守るか、そちらの方を考えるようになってしまっている。
 とはいえ、なるべくそういう状態にならないように、週末の選挙では、微力ながらより「まし」な方、より最悪ではない方、より、ろくでもなくない方を選びます。

 私たちは多分、歴史的に見ても結構よいひとときを生きてきたのだと思う。
 お蔭で、私は私のごく平凡な頭と普通に利己的な心をもってしても、基本的人権が天賦のものだと知っている。自由に生きる権利を私からも誰からも奪うことは、誰であっても出来ないということを知っている。多様性を喜び尊重することを知っている。暴力や不幸を経験した他者の痛みを想像することを知っている。学び続けることの楽しさと意義を知っている。上の言うことを鵜呑みにせずチェックしなければならないこともしっているし、そこにいたる事情はともあれ、しんどそうな人は助けるべきだとも知っている。

 法律や他の人がなんと言ったところで、変わるものではない。
 だが、せっかく法がそれを「比較的」護ってくれている現状をみすみす手放すようなことはするまい。仮に、手直しをする必要があるとしても、それをするのは、新しい、賢い世代の役割だ。

以下、参考までに。

Wordの履歴機能で、自民党が変えた憲法を見てみる
憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない

昔書いた「パートI」。
嵐の只中に ―私たちはもっとわがままにならなければ―
これは台風の夜だった。今は大雨警報が出ている。ここ何週間のうちに、警報にもすっかり食傷気味になってしまったが、気を抜くのは禁物、どうかおおきな被害になりませんように。

2016/07/05

夏の装いを大いに語る

 湿気でどこもかしこもじめじめ、低気圧による空気の重さで頭まで痛い、脚も普段以上にむくむ気がする、そんな呪われた六月がやっと去っていった。おまけに大雨のせいで、警報に土砂災害、緊急休講、さらに「構内は安全ですので二時間は動かないように」までフルコース。散歩コースの小川に自生していたクレソンは跡形もなく流れてしまった。

 待ってましたとばかりにぎらぎらと晴れ上がった週末、京都をうろうろしていたら、祇園祭期間だからか昼間から浴衣や夏着物で歩いている人をよく見かけた。観光客向けのレンタルが多いのか、ばっちりと涼し気に着ている人はそんなにいないけれど、だからこそきまってる人は目立つ。
 バスの中から眺めていただけで、完全に目を惹かれてしまったのは比較的長身の女性。白地に藍色で大きな模様の入った、それこそ山鉾町の男たちが来ているようなシンプルな木綿の浴衣を一枚で着て、臙脂に白や明るい色の入った、これもオーソドックスな博多の半幅帯をかなり直線的な文庫に。黒く塗った下駄で、黒髪のショートかごくミニマルなまとめ髪だったのだと思う。どちらかというと男物のような着方で、何も特別なアレンジがないのに、歩く姿勢が美しくて、帯の上の背中がぴしっとしているだけでなく、帯の下、おはしょりからおしり、太もものラインに余分なだぶつきが全くない。美しい骨格の上に美しい筋肉をまとった人がこれ以上なくサイズの合ったタイトスカートを身につけた時のように、清潔でいて色っぽいのである。なかなかあんなに粋にはならないぞ。きっと洋服もきれいに着る方に違いない。

 原由美子さんは、浴衣はぜひ白地に紺、また紺地に白を、とおっしゃる。「それこそ大人の女が浴衣を着る醍醐味に通じるからです」と(*1)。でも、それってなかなか厳しい。紺と白の二色なんて、きちんと手入れしてパリっとしたのを美しく着ないと寝間着になっちゃうもの。

 それで思い出すのは、昔パリ近郊のシャンティイーで初夏の競馬のお祭り「プリ・ド・ディアンヌ」に行った時のこと。帽子祭と呼ばれるだけあって、昼間の外でのパーティみたいなものなので、色とりどりのドレスに華やかな帽子をかぶったご婦人方がわんさかといる。その花園の中にあって、ジーンズで乗馬ブーツ、金ボタンの紺ブレザーという装いの若い女性がいて、視線が釘付けになってしまった。やはりスタイルがとてもよくて、ブルネットのまっすぐな髪の毛が胸のあたりまで。それで、つば広の麦わら帽子に思いっきり色とりどりの造花を付けたものをかぶっていた。顔は残念ながら全然覚えていないんだけど、これも、普通にやったら普段着で来たのかって感じになってしまうところ、生まれもったスタイルと、帽子だけごてごてに盛っちゃう絶妙なバランス感覚、そして圧倒的な清潔感。

 いいなーいいなー。

 しかし、そこまで誤魔化しの効かないところで勝負するのでなければ、生まれ持った骨格に多少難があったり、美しい筋肉ゾーンに脂肪やむくみが果敢に攻め込んでいたとしても、気合いでなんとかなるのである(ちなみに、この気合いを長期に持続させるに足る体力・集中力・細やかさがあれば、生まれながらの美人に成りすますことも不可能ではないが、私の場合は面倒になって、それらの美徳は多少はあっても、専ら美味しいもの食べたり研究したりする方に浪費してしまうからいけない)。

 件の美女により和装欲が高まった所為か、うっかり好みの半幅帯を見つけて一目ぼれしてしまった。リバーシブルで使えて、表はやさしいベージュに草花とクジャクの図案化された模様が染めてある。年中使える柄・素材だから、カジュアルな感じのきものとかにも使える、ということで、つい、買ってしまった。手持ちの浴衣は何年も着ているものだけど、絹のシックな帯を合わせたらちょっと格上げ出来そうだし、半襟付きの簡単な襦袢を仕込んだら浴衣じゃちょっと、というようなお出かけとかにも使えそう(*2)。



(*1)  原由美子『原由美子のきもの暦』CCCメディアハウス、2015年、96頁。
 これ、とにかく美しい本です。『マダムフィガロ』の連載をまとめたもので、懐具合の想定が非常にバブリーなのでそのまま参考にはできないが、コーディネートは本当にさりげなくて素敵。

(*2) 「浴衣は寝間着だから」なんていう人、今時は絶滅しているのではないかと思うが、まあ、若いコならカワイイけど、もう少し落ち着きがあったほうが、というシチュエーションだったら、衿と足袋を仕込んで、ちょっと落ち着いた帯結びにしたらいいんじゃないかと思う。

2016/06/12

未来を楽しみにするための魔法の30分クッキング

 むしむしする気候の所為にしたくなるけど、困ったことにそれだけじゃないんよね。何しろ、諸事、停滞しているのである。
 気持ちのくさくさして仕方がないのを、どうにか仕事で発散させたり、親しい人々としゃべり散らかしたり、そういう感じで見た目滞りなく回っているけれど(これはありがたいことだ)、根本的に自分の意志の及ばない部分が多すぎる。かつ、自分の努力で何とかなりそうな部分をなんとかするのは途方もない困難な事業のような気がして、この一か月くらい少し進んでは少し戻って、というのを繰り返している。もっと、潜ったまま先へ行かなければならないのだけど、気が付くと肩ががちがちに固まっている。

 根本的解決のためにも、対処療法が必要だ。
 今日も午後中パソコンとA4用紙に埋もれて悪あがきした後、南高梅を買って帰ってきた。
 
 保存食の中で一番簡単かもしれない梅酒を漬けよう。
 梅1kg、氷砂糖480g、ホワイトリカー1800ml、そして4リットルの広口ガラス瓶。
 〆て2500円ほどの買い物である(*)。
 瓶は食器洗いの要領で洗ってよくすすぎ、布巾で水気をふき取った後、ホワイトリカーを含ませたキッチンペーパーで内部を拭く。
 梅は流水で洗った後、つまようじを使って「へた」を取り除く。説明を読むだけだとこれまた難事業のようだが、黒っぽいところにつまようじを押し込むとクイっと抜ける。それをざるにとって、一つ一つ布巾でよく拭いて水気を取る。南高梅はたまに赤みがさしているのが可愛らしく、既によい匂いもする。
 瓶に梅を並べ、氷砂糖を敷き、梅を並べ、氷砂糖を敷き、さらに梅を並べる。大きさが違うし、分量も少ないからそんなに綺麗な層にはならないが、多分大丈夫。そこにホワイトリカーを注ぐ。別のお酒で作るのも楽しそうだが、前に作ってから10年くらい経つし初心にかえってオーソドックスなレシピにする。あまり私が酒ばかり仕込んでいるので心配になる向きに説明しておくと、アルコール度数35度のお酒で果物を漬け込むのは法律的には完全にセーフです。


 後ろに見えるのは瀬戸内の夕暮れ。
 水晶のような氷砂糖が、少しだけ赤く染まったまあるい梅とともにぷかぷか浮かんでいる様子はとても乙女チックで、いっそ溶けてしまうのが惜しいくらいだ。三か月後、クリスタルがアルコールに溶解しきると、味見することが出来る。一年たつと琥珀色を帯びて、ちょっとしたご馳走になる。三年するころには買おうと思ってもそこいらの店では手に入らない美酒が出来上がることでしょう。
 ね、なんだか愉しみになってきたでしょう?3年後はともかく、1年後くらいは何とかなりそうな気がしてきたでしょう?
 そう、梅仕事は、見えない未来に、力技で一筋の明るい道を切り拓く、とっておきの魔女仕事なのだ。



(*)家の近くのスーパーでは、梅やラッキョウ、紫蘇と一緒に広口瓶や氷砂糖、ホワイトリカーが並んだ特設売り場を設けているのだが、何故かそこに「チョーヤ梅酒」などの既製品の「梅酒」も置いてある。当然既製品の方がお安いし、「お前は本当に梅酒が作りたいのか?飲みたいだけなんじゃないのか?」と試されている気分になる。

2016/06/06

さまよう音

 クストリッツァにくらっときている私の80%くらいはあの「ジプシー」の音楽に参っているんだという自覚はあるんだけど、さまよう人の音楽といえば、初めて聴いた時から波長が合ったのがユダヤの伝統的な音楽をジャズにアレンジするジョン・ゾーンのマサダ室内アンサンブルの作品(こんなん)。独特の悲哀を帯びた和声で展開するメロディに、なぜか呼吸が楽になる。盛り上がるやつも楽しいけれど(こんなんとか)、愉快一辺倒ではなく、むしろ少し落ち気味の時に、悲しくなりすぎないように、疲れすぎないように、そうっとそばにいて支えてくれるような感じだ。
 これを教えてくれたヒッピーっ気のある友人に誘われて、パリの北郊外のサン・ドニにある60年代風の工業製品チックな公会堂にライヴを聴きに行ったことがある。パリ市内ではあまりみない(ひょっとして全然ない?)レーニン通りなんていう道を通って、休憩時間は大統領選の話をして、帰りには東駅の前にある24時間営業の昔ながらのカフェのカウンターにもたれかかりながらビールを飲み、山ほどフライドポテトの乗っかったクロックムッシュを食べた。深夜の東駅や北駅周辺には、どこから来たのか、どこへ行くのかよくわからない人達が大勢たむろしていて、零時をまわる頃には、早朝の電車に乗るつもりで宿を取っていないバックパッカーが、駅を追い出されたのかカフェにぽつぽつと入ってきて奥に消えていく。ビール二杯くらいとともに、こういう若者が奥のソファ席に横になって夜明けまでの数時間を過ごすことを店主は黙認しているのだそうだ。流れ者だらけの深夜の東駅前で食べた夜食が、ニューヨークを拠点として世界中で流浪の民の音楽を聞かせるライヴと記憶の中では切り離しがたく結びついている。
 
 思えば昔から遊牧民や山の民、海賊は憧れの対象だった。住所や組織、国境みたいな枠を超えて移動して生きることの自由さ。自分は、家を追い出されたら寒さにも暑さにも耐えられないし、自分の食べるものひとつ調達することもできない。だから余計に自分や一行の面倒を見てなんとかしてしまえる、という事が魅力的に思えるのだろう。辺境だから、真ん中からちょっとはみ出したり追われたりしてきた人が身を隠したり、真ん中の人には堪える制裁が下ってもけろっとしていたりする。海や川で暮らす人々。中華に対する周縁の夷狄。アルプスでは、山の人間がたまに里に下りてきて里の娘さんが恋をしてしまったりするのだと、ブローデルが『地中海』の入門編で書いていた。



 先日、Throwing a Spoonというピアノとチェロのデュオの演奏会を聴いた。これもシンプルなメロディで肌を透過してしみてゆくような音楽だ(こちらでいくつかは聞くことが出来る)。ピアノなんていう数学的でメカニカルで複雑な楽器を、あんなにして、風で木の葉が揺れるかのように自然に、人間に寄り添うように歌わせるトウヤマタケオさんは本当に凄い。徳澤青弦さんのささやき声の下で泣いているようなチェロはもういろっぽすぎる。幅広いテイストの演目があったけれど、中の一曲の単調すぎるぐらい単調な響きで、またしても乾いた中央アジアの草原への郷愁をどうにもこうにも抑えられなくなってしまった。曲名はSophia。動物の毛のにおいとかしてきそうで、いったこともない場所なのに、こんなにも懐かしいって本当にどういうことなの。だから遊牧民の若き首領よ早くわたしを攫え。そんなことを口の中でつぶやく。

2016/05/17

アンダーグラウンド

 エミール・クストリッツァの撮った映画で始めて観たのは『ジプシーのとき』。7~8年ぐらい前、なにやら怪しげな上映会で、後から感想を言い合った。何を言ったのか覚えていないが(実のところストーリーもあまりよく思い出せない)大学の先生みたいな人に、上映中あなたの表情が面白かった、みたいなことをいわれたのをなんでか覚えている。
 兎に角、先を予想したり前を反芻したりといったことをするには想像を超えていて、その瞬間瞬間、ただ目の前を過ぎていく映像と音楽に夢中になっていたのだと思う。後は七面鳥とか、段ボール箱とか、クラゲみたいな花嫁のヴェールだったりとか。
 このたびの『アンダーグラウンド』は、多分、それ以来はじめて。ヴェールは今回はなお一層クラゲみたいだった。七面鳥はいなくって、アヒルとか、水鳥。水鳥が、そりゃあもう重そうに飛ぶのだ。段ボールはなくって、代わりにあの地下の工場かよ、なんだよあのシャワー!もう、夜自転車漕いでる人みたら発電しているようにしか見えないんですけど!

 よくわからないが見たほうがいいような気がして時間を作って観に行って、たしかにそう、これは観るべきものだった。
 
 結構まだ頭の中がドロドロしていて、書く方がいいのかどうなのか、書いて何かになるとも思えず、酷く持って回ったよくわからないことを書くんじゃないかと思うけれど、世の中に生きていると、あるトコロからだけみえる、他の場所や機会や方法ではみられないものがあって、この映画はそういうものを見せる。頭の中でたくさんの声がギャーギャーと喚いているようにして、これでもかと。そして、そういうものがあるという事を、今初めて分かったような気分にさせる。
 冒頭のブラスバンドの調子っぱずれに浮かれポンチで直球な音楽が始まってからずっと、もう、こらえようもなく不健康に愉快な気分になってしまって、こちらの心は騒ぎっぱなしだけど、スクリーンの向こうもひどくって、基調として酔っぱらって怒鳴り交じりで馬鹿笑いしながら歌ってて、手を伸ばすとそこいら中に銃があって、ズボンにも入ってて、サスペンスもなく簡単に発砲されて、そうしているとウソみたいに情け容赦なく爆弾が降ってきて、廃墟になった町で、爆破された動物園から迷い込んできてへばっている猛獣を眺めながら、黒猫で靴を磨いたりしているのだ。人間の一生の何十年も(20年だ)が太陽も月も知らずに過ぎたりするけど、歴史の犠牲者とかいう感傷的なものに収まりきらず、そもそもは身内のだまくらかし合いにしては矢鱈とスケールが大きくて、地上に出たとたん、昨日の喧嘩の続きみたいにして戦争してたりする。ドイツのマンホールの下をずっと歩いて行ったら本当にアンダーグラウンドな道路網がバルカンやイタリアまで続いているんだろうか?

 普段は、「これはもっと前に見ておくべきだった」とか「若い時に読むべき本」みたいな言葉に対しては疑わしく思っているけれど、この作品については、ちょっともったいない見方をしてしまったと思わないでもない。1995年に大人として、つまり3-4年前からきちんと世界の情勢に興味をもって知って、自分の考えを持っているきちんとした大人として、これを観てみたかったと思う。多分、世界中で1995年から2-3年の間にそういう人たちに、(というと限定しすぎかもしれなくて、別に1995年じゃなくて今になっても、ユーゴ内戦の同時代人たちに)、ココからでなければ見られない世界を見せた映画だと思う。
 (とはいえ、それはいずれにせよ叶わぬ望みではあるので、ベストを尽くしたということになるのかな。まあ、頭のドロドロはやや鬱陶しくはあるけれど、やっぱり観てよかったのだ。)

2016/05/09

角島大橋ひゃっはー

 雨の日の月曜日、すっかり連休が終わった気分でがっつり仕事した後は、頭休めに写真の整理でも。今年の連休は幸いにもいくつか行きたいところに旅が出来たので、おいおいおしゃべりしますが、まずは角島大橋を。

 場所は山口県下関市、本州と「角島(つのしま)」を結ぶ、1.7kmくらいの橋で2000年に開通した。国定公園内なので高さが抑えられているのですって。途中、大きな船を通すために少し高くなっている場所があったり、ハト島を迂回するため大きく曲がっていることで、余計にピクチャレスクで趣がある。


 愛すべきポンコツを駆ってのそのそ行ったので、島まで橋を渡ります。吊り橋じゃないので、本当に海の上を道が続いているような感じ。写真撮れていないけれど、上から見た海の色がまたすごい。ガラス玉みたいな透明感のある明るい青緑が、島に近づくにつれて濃くなっていく。

 
 角島側から本州を臨む。この日は天気も殊の外よく、まだ午前中の清澄な光が眩しかった。


 角島に上陸して、そのまま橋と反対側まで来ると、灯台があった。海の色が少し濃くなったような気分。ミカンの花の強烈なにおいがする。


 

 島の灯台付近の駐車場では、電動式のけったいな機械で烏賊が回っている。一夜干しの焼いたのが塩焼きにして売ってあって、なかなか美味しかった。
 (ここでイカを食べておいたのは正解で、この時、普段は長閑なはずの一帯は観光客でめちゃ混んでいて、観光向けのお洒落っぽいレストランには当然の如く入れず、といって他に店がたくさんあるわけではないので、結局この日の昼食は15時前までお預けだった。)


 本州側に戻って、少し離れたところから再び橋をのぞむ。ご覧の通り、水深が浅いのか砂の色なのか水の色なのか、海が絵に描いたようなエメラルドグリーンで(観光案内ではしばしばコバルトブルーと書かれるが)、瀬戸内とも少し違う。目の機能がいきなり向上して彩度がupしてるんじゃないの、ええ、海ってこんなに綺麗になるもの?なんてびっくりしてしまう。


2016/04/25

リモンチェッロ

 レシピを書き留めるためのノートをわざわざ買ったあとで気付いたのだが、これ、ネットに挙げておけばいつでも検索して見られるし、参考にしたレシピもリンクを付けられるし、写真も一緒に整理できるし、いいことずくめなんじゃないかしらん?早速やってみることにする。


 まずは、材料。これは、向島の露店でそれぞれ一袋100円で手に入れた瀬戸内の柑橘類で、出来た姉である私は、比較的綺麗な中央と左下のレモンは妹に送ってしまったので、右上のやや小さ目のレモンを使う。

 メインの材料を入手したらリサーチである。
 リモンチェッロなるものが作成可能だということくらいしか知らないので、いくつかレシピを見たりして味の予想を付ける。「リモンチェッロ レシピ」とかで検索して、クックパッドの有象無象を注意深く避け(*)、意外と使えるまとめサイトなどみていると…
自家製リモンチェッロのつくり方レシピいろいろ|Naverまとめ
 こんなのを見つけて読み込み、結果的に
イタリアマンマの直伝レシピ~リモンチェッロ~|ほぼ日刊イトイ新聞
 これにたどり着く。大体、「ほぼ日」の実験系料理はあまり間違いがない。おそらく、これが一番本格的で美味しくなるレシピ。
 スピリタスウォッカ1リットルに、レモン6-8個分の皮を一週間漬け込み、取り出してさらに別のレモン6-8個分の皮を同じものに一週間漬け込む。その後、水1リットルを温めて漬け込んで白くなった皮からさらにエキスを取り出しつつ砂糖750gを溶かす。冷めてからそれぞれを濾して合わせる。

 うん。きっとすごくおいしいだろう。
 問題は、とても面倒そうなこと!!イタリアの家庭で作られている飲み物がそんな厳密なものであっていいはずがない。少なくとも私には無理!と思って、さらに複数のレシピの読解に励む。
Casa dell'Albero|自家製リモンチェッロ
自家製の美味しい リモンチェッロはいかが?!| イタリア・絵に描ける珠玉の町・村 ・ そしてもろもろ!

 割り出されたのが以下。

・レモン7個分の皮を、96度スピリタス500mlに一週間くらいつけこむ。
・そこに、500mlのミネラルウォーターに350gのグラニュー糖を熱して溶かしたものを冷まして合わせる。


 これが材料だ!右上が、泣く子も黙る96度のアルコール、スピリタスウォッカ。歩いて5分のスーパーであっさり見つかった。500mlで2000円なり。これに、漬け込むためのWeckの可愛い水差しを加えて、レモン100円で始めたのに、材料費が2500円に…不覚。


 何より重要なのは、レモンの黄色いところだけを丁寧に剥くことの模様。白いところが入ると苦味が出てしまうのだそうだ。ずっと昔100均で買ったピーラーは全然使い物にならないので、研いでもらったばかりの包丁で。
 そして、前述のWeckの水差しを軽く熱湯で洗ったものに入れて、上からスピリタスをとぽとぽ。

 保存食系で一番気を遣うのは衛生管理だが、その点96度のアルコールに漬け込むなんて無敵でしょう。そのものが消毒薬みたいなものだもの。イタリアの家庭料理、さすがだ。


 皮をはがれたレモンはスライスしてパッドに並べ、冷凍しておきます。これはこれで紅茶とか料理に。

 レモンピールのアルコール漬けは、冷蔵庫に保管して毎日ゆすっていると、なるほど一週間くらいで白く色が抜け、代わりにアルコールに綺麗なレモン色がうつった。

 そこで、コーヒーフィルターとざるを使って濾す。その間、ホウロウの鍋でミネラルウォーターを熱し、砂糖350gをなんとかして溶かす。砂糖の350gというのはなかなかぎょっとする量であって、分量は増えてトロリとしてくる。(アルコールそのものに加えてこの砂糖の割合なのだから、本当に、ちょっとやそっとじゃ腐るはずがない。凄い保存食である。)

 冷めたら、レモンエキス入りアルコールとこのシロップを混ぜ、瓶に詰めて、冷蔵庫でさらに一週間以上置く。


 思ったより量が増えたので、瓶が足りなくなって、Weckの可愛い水差しだけでなく、スピリタスの空き瓶はもとより、炭酸水の入っていたペットボトルも使用。ペットボトルの分は早めに飲んでしまわないと…!
 

 冷凍庫で冷やして、小さなリキュールグラスでキュっと頂きましょう。すでにアルコール分ともよく馴染みつつあり、すごーっく香りがよくて、甘くて、口の中から頭に抜けるように爽やか。なのに足腰立たなくなるくらい強い。悪魔の飲み物ですね。すてきすてき。

(*)こういう実験的なモノの時にはクックパッドは使いません。課金したら話は別だろうが、通りすがりの人間なので、よく作るものを材料とかやりかたでずるをしたいときとか、今夜のおかずが思いつかないときとかに、材料で検索してみて適当にアレンジする、という使い方をしている。