斎藤真理子訳の韓国現代小説。『キム・ジヨン』は辛かったけど、この前、帯状疱疹やっぱり罹ってしまってちょうどそこそこ混んでいる時に一人で病院に行けた時にパク・ミンギュの『カステラ』をお供にしたら大層楽しくて(*)、図書館で短編を選んではつまみ読みしている。
同じ斎藤真理子女史のウェブ上のエッセイに「編み狂う」という編み物偏愛シリーズがあり、(編み狂うー水牛のように)本当に狂っていてカタルシスがある。編み物といえば去年の冬にせっかくあやふやだったかぎ針を覚えたので、何か編みたいとはずっと思っており、思っているうちにすっかり涼しくなってしまった。今はヒャッキンの針とアクリル糸でたわしでリハビリしているが、本当は坊の帽子なんか編んでみたいところだ。刺繍だと刺さる針と見えにくい糸とコトによるとビーズなんかで店開きしなければならず、完全に寝かせてからしかできない(し、寝かせてから自分の体力に余裕があるときは別の仕事で店開きをしなければならない)けれど、編み物だったら準備も後片づけも簡単で直ちに危険になることは少ないし。。
『アンという名の少女』ネットフリックスの海外ドラマで、NHK地上波で週末の夜にやっている。といっても、最近は『ゴールデンカムイ』すら見る時間が取れなくて(夜に坊が落ち着いているか寝ていて夫婦そろって暇だといそいそと録画を見るのだ)、ひたすら録画が溜まっていっているのだが。オープニング映像からしてたまらん世界観で、風景がとにかく素晴らしいし、キャラクターがいちいち説得力のある配役&演技で新たな発見がある。
そのつながりで最近知ったのが、文春文庫で『赤毛のアン』シリーズが松本侑子訳で完訳出版される見通しだということ。小学校高学年くらい?に読んだ赤毛のアンシリーズは、私が初めて「翻訳」を意識した経験だったと思う。『赤毛の~』は覚えていないが、『青春』がたぶん松本訳だった。その後の『愛情』以降が最初は村岡花子訳。有名だし時代を考えると大変有意義な訳だったのだろうけれど、私にとっては、とにかく古めかしく違和感があって、物語と自分の間に「訳」が邪魔をしているような感覚が強烈だった。古めかしいというだけなら、石井桃子や瀬田貞二の訳したものの古風な言葉遣いを逆に味わって楽しんでいたので、何か肌に合わなかったか、そもそも途中で訳を変えたのがいけなかったのだろうと思う。その後いつかのクリスマスプレゼントに、掛川恭子訳の山本容子の銅版画の挿絵付きの美しいセットをもらって、『愛の家庭』以降はおそらくこちらで。村岡版で読んだのを読み返すとずいぶん違って、分量も増えていて面白かった。と、長い話になってしまったが、『青春』でかなりすっと入ってきたけどその後がなかった(当時、近くの書店に)松本侑子訳が、フル訳注付きで復活して文庫になっているということ、これはぜひ読みたいと思っているところだ。これもいつ読むの?という話だけど…キンドルなら授乳中という手があるか、ちょうどポイント還元セールやってるし。
(*)そのときは、家で一人で作業を出来る時間があれば、家事が溜まっていなければ研究をすることになっていたので、そういうラッキーが重ならないとなかなか本を読めなかった時期。