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2017/06/27

内発的動機付けによる雑用所用時間の最小化に関する考察

 年度末に仕事場を軽く整理したときに、「モノを探さなくていい部屋にしよう」をうたい文句にしてみたら、これがなかなかよい。
 2017年度新学期が始まって今が大体11週目だが、まだ一度もホッチキスもホッチキスの針もゼムクリップもボールペンもシャープペンも万年筆のインクも穴開けもハサミも職員証もコピーカードもクリアファイルも探していない。読みかけ論文も充電器もスペアインクも会議資料ファイルも探していない。――ちなみに授業プリントと学生の提出物と成績関連は、失くすとか想像しただけで恐ろしすぎるので、この仕事を始めた時から特等席を用意しており、もとより探したことがない。
 以前は週に平均して5回くらいは探し回っていたことを考えると、一度探すのに2分だとしても2時間近くの時間を、もっと有効に、つまり本を読んだり考え事をしたり、のんびりしたりゆったりしたりすることに使えていることになる。ので、家の片づけにも導入して、うん、これはかなり満足度が高い方法であることが判明した。

 家事や雑用は目的を自分の意志ではっきり決めておかないと際限なく増えるからいけない。「きちんとしとかなきゃ」とか「人に見られて恥ずかしくないように」とかってのは抽象的過ぎるし、他人の評価ベースだから結局のところ頑張っても嬉しくないし幸せが遠のくんだよな。その点、昔流行った『人生がときめく片付けの魔法』は、「ときめき」という内発的な動機を具体化するメソッドなので多分効果があり、あれに人生を救われた人は少なくないと思う。
 問題は、私はすでに相当にときめいてる人間であるからして、べつにタンスの中にブラが宝石の如く鎮座ましましたりしてなくたって、心の中はいつでも貴婦人だということ。とはいえ、森茉莉式エレガンスの全面実施はやはり外面的に一般人である乙女にはハードルが高いぞ。

 しかれば、片づけにときめきは不要。「モノを探す手間がない」「無駄を防ぐ」でよい。
 …ちなみに無駄ってのは、自分のモノをよく把握していないために起こる二度手間を含み、一度アイロンをかけたスカートに再度アイロンが必要な事態だったり、一度洗った服を着る前に再度洗濯が必要な事態だったり、床面積に対して詰め替え用の衣類漂白剤のストックが異様に豊富だという事態であったり、何故か同じ色のアイライナーが二本ある事態であったり、何故か複数の本が二冊づつある事態だったりする。これが予防出来るとしたら、それはすごいことだ。

 ちなみに、「住まう」面はこんな風にすっきり考えることが出来たとして、「味わう」はまあ、私にとっては人生の目的の一つでもあるのでそれなりに無駄を覚悟で追及するにしても、「装う」に関してはまだまだ煮え切りません。
 「心地よくて最大限のパフォーマンスが発揮できる」&「信頼されて稼げる」でOK?ここがヨーロッパの気候で、私が男性の身体をしていたら、それを満たすスタイルは歴然と存在するだろう。でもモンスーンには合わなかろうし、私個人はというと衣服に煩悩がありすぎ、色に目移りしすぎる。まあ、金勘定部門でも司法でも軍人でもないから少しも遊びがないと却って信頼を損ねるようにも思うけど、今のところはまだ試行錯誤中というところ。

2017/06/18

命が安すぎる世界の狂気とその背後の冷徹な思考と技術に対する憎悪と恐怖の話

 呉にて。今日の投稿は楽しい話ではない。


 戦争は人間集団の問題解決の方法としては最も下劣で野蛮で非文化的であるばかりか非経済的であり、文明世界でそんな手段を採らなければならなくなった時点ですでに相当負けていると思っている。
 でもその「戦争」というのも、味方の損失を最小限にしながら相手に損害を与えることで暴力的に要求を通すことと考えたときの話。自分の損失を最小にするという前提が崩れてその犠牲が目的化された世界を未だどう考えていいのかわからなくて、仕方なく狂気みたいなものと仮置きしていた。
 
 けれど、昨日やまとミュージアムで、戦艦大和に用いられた当時最先端の技術(というとそれなりに恰好よく響くし、「大和に用いられた当時最先端の技術は日本の戦後の工業を支えました」って説明がリフレインされるけど、1945の最先端の技術が原子爆弾だった)とともに、同じ工廠から「回天」が作られたことを知る。
 居並ぶ戦艦模型にロマンを見出す大勢の観客の中で、その回天の実物大の姿を見て、人間ひとつを一度の攻撃で犠牲にすることを前提に作られた、前後左右も分からないような広い海をただ目標に衝突するために進む、暗く狭い、窓のないロケットのような物体を設計して組立て、作戦に組み込んでいる技術と理性のようなものの存在と(そう、それは狂気や集団幻想のようなものでは決してない)、それがまた大和に技術の精華をつぎ込んだ挙句に片道分の燃料とともに絶望的な戦いに送り出したことを考えて、その存在なのか、そういう状況に至った要因なのか、とにかく昨日から何度も発作のように、人間としてという以前に動物的な憎悪と恐怖に駆られている。生命維持を求めることをしなくなった存在に対する根源的な恐怖と、それを作り出している頭脳への憎悪と、そもそものそうした状況への強烈な気味悪さ。
 回天とは、人間魚雷と言われたりもする、海中から敵艦を攻撃するための爆弾で、人間が一人乗り込んで操縦する。その中の人間ごと爆発することを前提とした一回限りの特殊兵器であり、零戦の空中特攻同様出撃したものは戻らないことが「成功」で、過酷な訓練の途中で命を落とす若者も多かったと昔読んだ。自爆攻撃では飛行機の方が有名かもしれない。どちらも少し考えただけでも内臓が締め付けられるような心地がするが、この魚雷の実物を目の前にしたときの重苦しさと息が詰まるような感覚は(自分に閉所恐怖症の気があることもあるけど)圧倒的である。

 私は小さいときから太平洋戦争関連の話は本当に苦手で、ひどいときはひと夏一人で眠るのが怖くなるくらいで、やまとミュージアムも自分からは決して行こうと思わない。今回は仕事で、もう自分はそれなりの世界についての知識と思考力を身につけて、自分を幸せにすることが出来る大人だから、怖がらないで知識を増やして使うことが出来るはずだ、と思っていたけれど、この感情の動揺からして甘い憶測だったみたい。智慧と知識と思考と言葉の力を駆使して、まずは自分のケアをしなければならない。

2017/06/12

飛ぶために、地ならし。

 我が家のベランダには、ミントが二種類(一つはアブラムシとの戦いで虫の息)、近頃伸び伸びしてきたローズマリー、そして小さなオリーヴの木がある。
 この同居人たちは、みなこの春からの新顔だ。講義のない時期は家を空けることが多く、それが住環境をどうかしようというときのボトルネックになっていた。が、いつまでも万事仮住まい気分で、ほしいものを我慢しているのも嫌だと、ふと思い立ったのが四月のある晴れた土曜の朝。旅行中のことはその時に考えればいい。その日の昼にホームセンターに車を駆り、ハーブは呆気ないほど簡単に手に入った。
 二週間後にはオリーヴを手に入れた。
 間髪入れず、一番手のかからないはずのミントにアブラムシがつき、方々に訊いては手を尽くして、難しそうだからその株はあきらめることを視野に入れつつ室内にもう一鉢増やし、ついでにバジルも導入…と、向こうの繰り出してくる攻撃に対処しているうちに、なんだか適当にやっていけそうな気がしてきて、なにもこんなに勿体ぶって始めるようなことでもなかったな、と思うに至る。
 手のかかる奴らが家にいるというのはそれなりに楽しい。

 少し嬉しい誤算なのは、庭いじりを始めたタイミングで夏の海外行きの予定がぽろぽろと決まったこと。早速その間この子たちをどうするか考えなければならなくなったわけだけど、煩わしい、とか失敗した、みたいな気分はない。むしろ、ああ、やっぱり遠くへ行きたいときには近くを大事にしてみるものだな、という感慨。
 他のところへ行きたいとき、状況が変わってほしいときほど、今いる場所を居心地よくするべく努力すること。これは、すぐ下の妹が昔シェアしてくれた「発見」で、なるほどと思って出来る限りその通りにしている。例えば「上手くするとそのうち引っ越し」みたいなときに、今後何年も住みたくなるくらいに家を綺麗に掃除&模様替えする(これは試しに仕事場で当てはめて考えてみれば、どれだけ致命的に重要なことかわかると思う)。気持ちが「他」や「先」を向いているときほど、「いま・ここ」を意図的に丁寧に扱って、自分にとって居心地よくしておくこと。といって、なかなかいつもきちんとできるわけではないのですけれどね。どちらかというと、おまじないのようなものだ。
 
 以前、夏休みのこども科学電話相談で、地球環境悪化で火星に移住するかもみたいな話題が出た時に、先生が「地球の環境をよくできないような人類が火星にいっても、住める環境にできないしその資格はない。宇宙を知って地球のことをもっと考えて」というようなことを仰っていたのを思い出す。これも、どこかつながっていると思う。