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2017/06/18

命が安すぎる世界の狂気とその背後の冷徹な思考と技術に対する憎悪と恐怖の話

 呉にて。今日の投稿は楽しい話ではない。


 戦争は人間集団の問題解決の方法としては最も下劣で野蛮で非文化的であるばかりか非経済的であり、文明世界でそんな手段を採らなければならなくなった時点ですでに相当負けていると思っている。
 でもその「戦争」というのも、味方の損失を最小限にしながら相手に損害を与えることで暴力的に要求を通すことと考えたときの話。自分の損失を最小にするという前提が崩れてその犠牲が目的化された世界を未だどう考えていいのかわからなくて、仕方なく狂気みたいなものと仮置きしていた。
 
 けれど、昨日やまとミュージアムで、戦艦大和に用いられた当時最先端の技術(というとそれなりに恰好よく響くし、「大和に用いられた当時最先端の技術は日本の戦後の工業を支えました」って説明がリフレインされるけど、1945の最先端の技術が原子爆弾だった)とともに、同じ工廠から「回天」が作られたことを知る。
 居並ぶ戦艦模型にロマンを見出す大勢の観客の中で、その回天の実物大の姿を見て、人間ひとつを一度の攻撃で犠牲にすることを前提に作られた、前後左右も分からないような広い海をただ目標に衝突するために進む、暗く狭い、窓のないロケットのような物体を設計して組立て、作戦に組み込んでいる技術と理性のようなものの存在と(そう、それは狂気や集団幻想のようなものでは決してない)、それがまた大和に技術の精華をつぎ込んだ挙句に片道分の燃料とともに絶望的な戦いに送り出したことを考えて、その存在なのか、そういう状況に至った要因なのか、とにかく昨日から何度も発作のように、人間としてという以前に動物的な憎悪と恐怖に駆られている。生命維持を求めることをしなくなった存在に対する根源的な恐怖と、それを作り出している頭脳への憎悪と、そもそものそうした状況への強烈な気味悪さ。
 回天とは、人間魚雷と言われたりもする、海中から敵艦を攻撃するための爆弾で、人間が一人乗り込んで操縦する。その中の人間ごと爆発することを前提とした一回限りの特殊兵器であり、零戦の空中特攻同様出撃したものは戻らないことが「成功」で、過酷な訓練の途中で命を落とす若者も多かったと昔読んだ。自爆攻撃では飛行機の方が有名かもしれない。どちらも少し考えただけでも内臓が締め付けられるような心地がするが、この魚雷の実物を目の前にしたときの重苦しさと息が詰まるような感覚は(自分に閉所恐怖症の気があることもあるけど)圧倒的である。

 私は小さいときから太平洋戦争関連の話は本当に苦手で、ひどいときはひと夏一人で眠るのが怖くなるくらいで、やまとミュージアムも自分からは決して行こうと思わない。今回は仕事で、もう自分はそれなりの世界についての知識と思考力を身につけて、自分を幸せにすることが出来る大人だから、怖がらないで知識を増やして使うことが出来るはずだ、と思っていたけれど、この感情の動揺からして甘い憶測だったみたい。智慧と知識と思考と言葉の力を駆使して、まずは自分のケアをしなければならない。

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