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2015/07/17

嵐の只中に ―私たちはもっとわがままにならなければ―

 高音で電線を鳴らしながら風が吹いている。

 小さいころの私は、自分でもはっきりと覚えているくらいに大きな音が苦手だった。暴風や雷の時、工事車両や除雪車がゆっくりと家の前で作業をしているときなど、感覚的な恐怖に、泣いたりとかもしたんじゃないだろうか。それで、母の発案だろうか、そんな時には我々姉妹はジグソーパズルで遊ぶことになっていた。外の世界で起こっていることは何一つこの小さな家の中の平和を乱すことはないのだから、耳を澄ませなければ、観なければ大丈夫。気を紛らわせるには、パズルは最適だった。
 大きな音に対する感覚的な恐怖を克服したのは、これもはっきりと覚えているのだけれど、小学三年の冬に吹奏楽を始めた時だ。トロンボーンのすぐ後ろはティンパニやシンバルで、轟音が腹に来る。反射的に身を縮め耳をふさぎそうになるところを、少しずつ抵抗を解いて、その音を体に浸した。寒い日に外に出るときに少しずつ呼吸を合わせて冷たさを全身に感じながら体を慣らす要領で。その合奏の間に腹に響く轟音は心地の良いものになった。
 自分が大きな音を発することへの抵抗はその後も続く。中庸の美意識、というとそれなりに素敵だが単なる怖がりなのか、声を挙げたり音をだしたり食べたり遊んだりしゃべったり噛みついたり、といったいちいちを、思いっきりやるところに行く手前で躊躇して手加減しまう。何度も、その時々に出会った人や物事を通して、思いっきり出していいんだよ、ということが腑に落ちて、リミッターを外せる、ということがあって、その度にすごい解放感を味わってきた。時間が経つと忘れてしまうので、たびたび自分でも、外していいよ、と言ってやらなければならない。

 実は授業準備も論文書きもしなければならないけれど、台風の夜にはあんまりにあらゆる方向が嵐なので、こんなことを思い出してみたりしていた。

 気が付いたら大きくも小さくもすっかり乱世である。どこでも、責任と権力を持っている人や組織が、自分の周りのごく狭い利害ばかり考えて身勝手な決断を下すのがなんでか許容されていて(それに飽き足らずより大きな力を求めたりするが、まともに使えやすまい)、その反面、下っ端の我々や市井の人たちが(なんでか)(どこにあるのかしらない)「全体」や「集団」の利益を尊重して行動することを強要される。私たちはもっとわがままにならなければ。

 歴史やファンタジーで一番わくわくするのは、乱世を乱世と、敵を敵と認識して、今まで見えなかったり目をそらしていたその敵に立ち向かう場面だ。その先には、決裂や停滞もあるけど、自分や仲間の成長なんかもあったりして、何より、身体を縮めないで状況を肌で感じながら、力をフル稼働させることそれ自体が愉快だ。自分の考えで、状況に立ち向かえることの自由。

 そんなんで、ここ何日か各地で行われている運動の様子を写真などで見てると、近くにいたら加わってみたかった。それに関連して…。

 【再掲】「パリのデモから考える」
 國分功一郎さんという方のブログの記事で、パリのデモが、いかにだらだらと秩序なくごみをまき散らしながら進んで行くかが楽しげに書いてあるのですけど、ちょっと引用。
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「デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しようとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。
 パリのデモでそれぞれの人間がそんなことを思っているということではない。多くの人はなんとなく集まっているだけである。だが、彼らが集まってそこを行進しているという事実そのものが、そういうメッセージを発せずにはおかないのだ。」
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で、政府は、デモの権利を認めることでそれを無理やり体制の中に、秩序の下に組み入れるわけだが、デモンストレーション、示威行為というのは、その性質としては大人しく収まっているようなものではないわけ。きちんと問題を理解した人が、ゴミなんか拾っちゃって整然とコールしながら歩いたりなんかしなくていい。群衆が目に見えて出現することが一つの力なのだから。で、どうこれを使うか。という話。正直全部きっちり理解できたか怪しい部分もあるけど大変に面白かった。

 ついでにもう一つ、最近ちょくちょく訪れている正体は知らない男性のブログ記事である。
「ギリシャ経済危機を見て考えたこと」ーガメ・オベールの日本語練習帳
 これは、冴えてセンチメンタルな自由についての話。引用。
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「人間の自由に価値があるのは、その「自由」が共同体の価値を脅かすときに限られる。
社会の生存が脅威にさらされないような自由は実はただの思想的な自由にしかすぎなくて、個人の「わがまま」と共同体の利益が相反するときにのみ「自由」は真の価値、本来の性質、言葉の真実を個々の人間に向かって問いかけはじめる。」
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 あるいは、この方が別の場所で使っていた「魂に染みついた自由」(ちょっとあやふや)という言葉。
 これが多分、たまに私を使いにくく思う方がいたら「だから外国かぶれは…」と毒づきたくなるものの正体かもしれないし、フランスにかぶれるずっと前から、多分小学校のある担任や中学校のある担任の先生を苛立たせたものとも通じるのだろうと思ったりする。


 わがままに生きていきたいし、納得出来ないことをやりたくないので、「汝の意志の格率が、常に同時に、 普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」みたいなことも考える。
 コレって、みんなのことを考えておとなしくしていなさい、というのんとは違うよね。
 ただまあ、面倒になってそんなのぜーんぶ、糞喰らいあそばせ、な気分になることもままある。


 風に吹かれて支離滅裂に。


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