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2014/12/10

嗅覚をおいて地球が回る。(鼻の話2)

 私の嗅覚は戻ってくるのだろうか?
 それとも、ひょっとしてこの先ずっと、食べ物の味も半分以下しかわからず、布団のにおいに安心することもなく、ヴェレダのマッサージオイルに癒されることもなく、自分が悪臭を放っているかもしれない不安におびえながら生きていくのだろうか?
 外見と賞味期限のみで食べ物の鮮度を判断し、見た目と音だけでデパート一階の化粧品売り場に高揚を感じ取り、レシピと秤を頼りに一応の料理をし、ガス漏れの時に一人安らかに逃げ遅れ、ついには、ただ一度これが飲めたらそれでもう幸せ、と思えるようなワインに出会うことなく一生を終えるのだろうか?
 
 そんなことをもやもやと考えながら、あまり眠れぬ夜を過ごして火曜。とりあえずは内科を受診することにした。
 においが感じられないのだと訴えると、「はあ…ここでは風邪としての診断になりますが…」と受付の女性が少し困った顔をしたが、耳鼻科もよく知らないのでまずは受けてみる。呼吸器系の先生が、症状を一通り聞いて、背中の音やら喉やら診てから風邪薬と抗生剤を処方してくださった。
 聞くと耳鼻科と内科で処方される薬は大きな違いはないはずだということ。ただ、耳鼻科では実際に鼻がどうなっているのかを調べることが出来るので、これでだめなら耳鼻科に行くべしということだった。
 同僚の先生に聞いたところよさそうな耳鼻科もあるようなので、午後の授業の後で時間があれば行ってみることとした。

 出講日で片道一時間強運転しなければならないので、薬を飲まずにそちらへ向かう。
 出先の食堂で、ヒレカツとご飯とひじきの煮物を選んだ。前日よりは味を感じる。味付けが濃いのかもしれない。それよりも、カツ、キャベツ、ひじきといった歯ごたえの特徴的なものだと、風味にとって代わりはしないものの、食べることに少しの彩りが感じられるような気がした。
 突き詰めれば、食感と、味覚に感じられるものの範囲内で味を工夫することによって、嗅覚なしでの食べる経験をある程度までは向上させることが可能なのではないか。とも考えたのだが、だが…、とそれからまた前にあげた「ひょっとして」サイクルをひとしきり展開させて少し落ち込む。

 帰り道は耳鼻科の診療受付時間がわずかだったので高速道路を急いだ。
 山陽自動車道を東に向かう途中、ちょうど見渡す限り山ばかりになる場所で、沈む前の夕陽が後ろから強烈に光った。ミラー越しに見てもなかなかの絶景だった。
 鼻がだめになったら、そのぶん目が矢鱈とよくなって、天才的な美術史家になれたりしないだろうか、なんて、また仕方がないことを考えてみた。

2014/12/09

嗅覚がなくなる。(鼻の話1)

 先週半ばを過ぎたあたりから喉が痛く、金曜午後には喉の痛みに鼻づまり、鼻水、咳、頭の重さと諸症状が加わって風邪ひき真っ盛りといった様子だった。週末はもともと予定がなかったことに甘えておとなしく過ごしつつ、熱が出ないなんてなんてラッキー、なあんてのんきなことを考えていたものである。

 月曜、相変わらず弱っているので遅めに出た。
 午後の仕事を半分終えたところで、おやつ休憩をしながら、あれ本当にこれピザまんなのかよ、と齧りかけのピザまんの上に書かれた「ピザ」の焼き印を確認した、ような気がする。夕方、頭痛がしてきたけどもう少しやることがあったので、インスタントコーヒーを投入。風邪ひいて鼻詰まってると本当にコーヒーがマズイ。それだけで気分が鬱々としてくるってものだ。

 という感じで、思えばすでにちらほらと症状が出ていたのだが、おかしいと気付いたのはその日家に帰って台所に立ってからだった。半分使って切りっぱなしのまま放置していた南瓜(!)をいい加減何とかしようとみたら、切り口にうっすら白い糸が引いていらっしゃる(!!)。カビか。幸い長めの南瓜だったので反対側から少し切ってみるとこちらは見た目は大丈夫。でもやっぱりかび臭いかしら、と鼻を近づけると無臭。試しに明らかにカビの生えたほうを匂ってみても、不思議と臭いがなかった。カビってこんなんじゃないはずだ。まあ、いっか、と明らかに大丈夫そうに見えるものだけを選り分けて鍋で火を通し、目分量で酒・醤油・みりんを入れて味付ける。
 そうしながら、この時点で面倒になってしまったし胃の調子もそんなによくないので、白だしをちょっと溶いた似非おだしで野菜を煮込んで卵でとじ、ご飯にかけてスープかけごはんにすることに。最後にショウガのすりおろしとごま油をかける。

 ここでだった。
 一口食べて、ショウガとごま油と出汁の味が全くしないことにはっきりと気付いた。台所に戻って南瓜の味見をする。なにやらあまじょっぱい感じがするけれど美味しいのかわからない。なんだこれ。
 すでに温かいものを口に入れて鼻は詰まっていない。というか、鼻が詰まっているからといってショウガやごま油のにおいから逃れられるものではない。試しにショウガを齧ると全く味のない、ただの歯ごたえが答えを返した。いや、わずかな塩辛さや刺激は分かる。じゃあ問題は…。私はティッシュをとって、香水を吹き付けてみた。それを顔に近づける…!何も香りがしなかった。エッセンシャルオイルも、キムチも。何てことだ。
 
 香りが全くしない、という以上に驚かせられたのは、香りを感じられないと、味が全く違ったものになることだった。ワインのテイスティングで、口の中のワインの香りを喉を通して嗅ぐという動作を行うが、ああいった喉の中からの香りは、どうやら味覚とほとんど一体になって味の感覚を作りだしていたものらしい。それがない味は、ひどく単調で、彩りを欠くものだった。歯ごたえと、塩辛さや甘さが、別々の物質的な刺激として入っては来るが一向に焦点が合わないような、和音として聞こえてこないような感じで、食事といえるのかもよくわからないような気分で、とりあえず目の前にあるものを胃の中に収めた。
 
 考えてみると、嗅覚というのは五感の中でも重要性では割合と低い位置付けのような気がする。視覚や聴覚を失うことを考えた時の圧倒的な不便さや、味覚や触覚が機能しなかったときに考えらえる直接的な危険に比べたら、においって、どうも切迫感に欠けるのだ。

 けれど、鼻をつまんだり、鼻が詰まったりした時の感覚とは全く違い、嗅覚が効かない状態では、ものを食べることの意味なんてほとんど消え失せてしまうように思われた。

 窓を開けて外の空気を吸う。冬の澄んだ空のにおいがない空気は、湿度と密度と温度をもった、正体不明の塊のように入ってきて気道を摩擦した。

2014/11/16

蕪蒸しのつもり

直径15センチほどのりっぱな蕪が安く、同じお店で鯛も悪くなさそうなのがあったので、珍しくレシピをみて作ってみた。やさしい味!けどもっとまるっとした感じに仕上げたいところだった。敗因は蕪と卵白の割合か。やっぱり秤使わないとだめか。続けて作ればそれなりのものになりそうだし、これ作れたら結構恰好いいんじゃないか。しめしめ。

2014/11/13

呪術的りんご

 パリの図書館で研究してた頃、ある日友達の友達がデザートのリンゴを食べながら「果物の中でもリンゴって面白味というものが全くないよね」と一言つぶやいたことがあった。彼女たちと昼食をとることはたびたびあったが、大体は研究の進捗だったり教授の噂話だったり、大統領選だったり夏に買うサンダルだったりを、凄いスピードのかなり崩したフランス語でまくしたてるので、割って入るのはおろか理解もおぼつかなかったことが多い。内容も記憶の中で埋もれつつあるけれど、その変な宣言は、そこから始まった果物の面白味についての白熱議論に半ばあきれつつ感嘆していたことと一緒に覚えている。
 リンゴは確かに、単純明快、ブドウのように食べにくくもなく、桃と違って長持ちし、柑橘ほどに味のヴァリエーションが鮮やかでない。面白味には欠ける果物と言われて反論しがたいところがある。でも、それならあのうっとうしいほどについてまわる象徴的な意味合いはどこからきているのだろう。単純明快にして完結した色と形か。
 田中相の漫画「千年万年りんごの子」を読んだのだがとてもよかった。雪の深い日に寺で拾われて育てられた主人公は、青森のりんご農家に婿入りして知らないうちに禁忌に触れる。画が綺麗で、ページの独特の間やかわいらしい方言が、村の人々の暮らしぶりやその中に垣間見える何かヒヤリと怖いものを、とても雄弁に伝えてくる。完結編は涙が止まらなかったし、読んだ夜に、久しぶりに夜中に目が覚めた時に自分まで見てはいけないものを見てしまったような怖い思いをした。おすすめです。
http://www.amazon.co.jp/%E5%8D%83%E5%B9%B4%E4%B8%87%E5%B9%B4%E3%82%8A%E3%82%93%E3%81%94%E3%81%AE%E5%AD%90-1-KCx-ITAN-%E7%94%B0%E4%B8%AD/dp/4063805786

2014/11/07

10月弁当

 はて、もう11月のはずなのだが。
10月は結果的にひと月のうち10日ちょっとくらいはお弁当を持参した。そもそもの始まりは、夏休みで実家やらいろいろなところでおいしいものを食べて、自分の食べたいものを食べることの重要さに目覚めたところに、『高杉さんちのお弁当』をちらっと読んで、お弁当を作ることを考えながら買い物をしたり夕食や朝食を作ったりといった持続性のある生活をしてみたくなったのだ。そして、以前100均で買って、あやまって電子レンジにかけてべこべこにしてしまったプラスティックの弁当箱の代わりに、中が黒い塗の弁当箱を用意して臨んだ。結果は、週平均2.5回ならお弁当道入門者としては上等じゃあないか。後半の諸々の締め切り前にもう少しだけ余裕があったら、記録は伸びたはずだ。11月もすでに一週間が過ぎたが、改めて挑戦しようと思う。以下は、10月ので、写真に撮ってた貴重な二作。

分葱入りの卵焼き、ジャガイモと人参のスープ煮(ということは夜にポトフを食べたあまり)、ウィンナー、ごはんには沖縄土産の「ごはん塩」。

ササミに塩レモンをまぶして小麦をはたいて焼いた奴、そのとなりで焼いた小松菜。ご飯はゴマ。包丁をきちんと使うべきね。

2014/07/16

ダークナイトに舌を巻いた話

 不安定な天候の所為か、近頃大学に居るということ自体に疲れがちだ。今やってる個人プロジェクトがあまり図版を参照しなくていいタイプのものなので、学校の仕事が終わったら早めに帰って家でゆるゆると研究。今日は色々と面倒になってしまって、色々と面倒になった時の定番、インスタントラーメン野菜てんこ盛り。ラー油を振りかけて食べたらいい具合に汗かいてすっきりした。

 休みの間に観て思わぬ収穫だったのは『ダークナイト』と『ダークナイトライジング』。
 特に『ダークナイト』の方は「舌を巻いた」って感じ。出し惜しみなしに盛り込まれたプロットが職人技的にシャープに(そりゃあまるで優れた塗りの棗の合わせのように)閉じて完成していて、ジョーカーが抜群に悪くてぶれないし(彼が恐怖を喚起するテクニックが観客にも使われるので、実際に残虐なカットは無いのに随分痛かったし目をつぶった)、最後のトゥーフェイスも最高に禍々しい。バットマンの、「そりゃ身も蓋もないぜ」的な反則技すれすれのテクノロジー濫用と、論理と倫理の通じないとこにいる敵との接戦は、双方が技を繰り出す度に拍手をしたくなるぐらい予想を越えていて、とても楽しかった。

 アメコミヒーローモノは『アベンジャーズ』とか『キックアス』から裏口入門しているところだが、独特な文法をちゃんと押さえたらもっと楽しめるんだろうな。『スパイダーマン』なんかも。
 『ライジング』の方は話はすっきりしていたが、精神論っぽく湿っぽいのが難であった。ジョゼフ・ゴードン・レヴィットの顔は良かったけれど。あと敵が勝手に小物になるほど興が冷めることはない。

2014/06/22

虚空に向かって忙しい、とか言ってみますか

 授業準備関連の調べ物で30年前の英語論文を見つけて読み始めたらそれが面白くって。作品を前にした人が皆見ているはずの視覚的な情報を、言葉にしていくことで、確実に見えなかったものが見えるようになり腑に落ちていく感じは美術を語ることの根本的な快楽だと思う。
 相変わらず勉強が足りないことばかりなものだから、やらなければならないことは悉く面白く、ただただ時間だけが足りない。その割に雨がちな日が続くと気力体力が妙に削がれて無駄なくタスクをこなす状態からは程遠かったりして。まあ、色々と宙ぶらりんだと余計にメモリを喰うから、出来るものは各個撃破で一斉掃射、それが難しい仕事だというなら、少しでも今日の内に明日のスタートラインを進めておくことだ。こういうと簡単そうに見えるでしょう?

2014/06/18

緊箍児的日常

 週末で体調は持ち直したと思ったのに、昨日の後半から酷い頭痛に悩まされている。今日の午後になって何とか止んだが相変わらず身体が重い。低気圧とホルモンバランス、それに往復二時間超の高速道路を雨の中運転したのが原因なんだろう。授業の後からは眼鏡にしているけれど、何かしらマシになってたりするものかしら。とにかく何をするにも目を使う。
 研究室にいても、仕事してるような気になるだけだから、と明日の準備をおわらせた時点で明るいうちに帰宅(っといっても19時なのだから情けない)。救いになったのは、ちょびちょび読み進めている原基晶の新訳『地獄篇』が素晴らしいこと。第三歌がすさまじい迫力で、さっきから何度か読んでるけどそのたびに震えが走る。

2014/06/14

見学会からのDVDからの勉強宣言

 A.S.バイヤットの『抱擁』は、確か学部3年か4年かそれくらいに読んだ。物語は、あまり冴えているとは言えない英文学者の卵が、研究対象である19世紀の詩人アッシュの書簡の下書きを偶然に図書館の本の頁の間から発見し、思わずノートに挟んで持ちだしてしまうことから始まる。書簡を調べるうちに、その相手である女流詩人との間に秘密の恋が見え隠れし、女流詩人の研究者であるモード・ベイリーとの共同研究が始まる。現代ではストーカーじみた伝記研究からフェミニズムまで、色々な文学理論や手法が、研究者たちの個性や信条と切り離せない関係をもって登場しては活躍し、ヴィクトリア時代では二つの静かな生活を焼きつくすような恋が燃え上がって、現代の(とはいってもデータ管理をPCでなくカードでやってる頃だ)研究者たちの人生にも浸食してくる。
 すごく気にいったミステリであり恋愛小説であり研究者の生態であって、映画があると知った時にはすぐにでも観るべしと思った割に忘れていたのを先ほど観賞した。モード・ベイリー役のグウィネス・パルトローが輝くようで、並行して展開するヴィクトリア朝の世界は美しいだけでなくてラファエル前派の画家まで出てきてくれるし、伝統的な図書館の造りも懐かしくわくわくする。同じ背景の中を現代と19世紀とを自由に移動する編集も(特に機関車の走り出てくる場面!)効果的で素晴らしかった。
 今改めて観ていると、資料を黙って持ち出したりしている場面にはかなりひやひやさせられるが、やっぱり一次資料(の新発見)は何よりの冒険だ、と改めて。勉強しよう。の前に、寝よう。

2014/06/08

なんてことだ

なんてことだ!五ヵ月もほったらかしにしていた。放っておいている間に更新へのハードルが高くなってさらに更新への気持ちがにぶるという私には思ってもみなかったような(だってハードルも何も、頭のなかのぐだぐだをそのままぐだぐだ書き散らしている以上のものではないはずですからね!)良くある問題が起きている。その間にも一応仕事で何かしら生み出してはいるのだし、よい方に考えれば現実の中でアウトプットがきちんとできているからここに来る必要もないのだとも言える(だが、それではあの青い顔の本とか140文字のふせんを貼っていくパブリックな掲示板も必要ないのが本来ではないだろうか?)けれども、それはそれで流れる時間の中に埋没して気付いた時にはエンドロールが耳を通過するなかで、取りこぼした記憶を拾い上げようと必死になるなんて悪夢みたいなことが起きるんじゃないか。

2014/01/06

年始にあたって

 年が明けて次の日には自分の一年も新たに始まるので、多分人並み以上に暦の上での一年というサイクルは身に染みついている。間を置かずに高校の親友たちと会って30歳になることについてとりとめなく話したりしていると、みんなもう何年もきちんと働いていて世間とうまくやっているだけに、歳を重ねていく自分と周囲の調整も色々と大変そうだ。
 私はといえば案外とけろっとしている。それどころか、2014年の世界は困難に溢れているように見えるけれど、30歳の私は29歳までの私よりはずっとなんでもやってのけそうな気がしてる。
 去年の一年間では、住む場所や環境が大きく変わった。変わったというのは点はそれまで通りだが(ここ数年では変わらなかった年の方が少ないくらいだ)、変わった後はすぐには変わらない、という珍しい変化が起きた。そのため、どちらかというと、定住向きに、考え方や生活のスタイルを変える必要があって、自分に何が求められているのか、どこに自分の場所を築くべきなのか、結構びくびくと様子を見ながら過ごしていたようにも思う。
 だが、なんとなく時間を過ごしていくうちにわかってきたのは、まアなんというか、周囲の求めることに応じるというスタイルは、あまり自分に合ってないし、そういうのを求められているわけでもないんだよな~ということ。むしろ、やりたいことやありたい感じを前面に出してそれに進んで行くなかで磁場のようなものを作りだしていくほうがやりやすい感じがする。
 それで、今年の目標は、随所作主に立ち戻り、友達や周囲の人とのつながりを大切にすることを条件として、自分の本当にやりたいことを(思う存分、納得のいくまで)やりたいだけやること、とする。世の中面倒になってきそうだし、自分も大人として振る舞う必要性が増してくるからこそ、良いと思うこと、納得のいくこと、やりたいことにこだわって筋を通したいし、論文何本とかいうより、心行くまで面白い研究をすることを考えていたほうが研究出来そうだ。
 それとともに、このところずっと続いているテーマとして、自分の存在と幸せの追求が同時に多くの人の幸せの追求につながるようにすること。

 どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます。