Pages

2015/12/07

リハビリ

 中途半端ながら人心地ついたら、その瞬間から何が何でもおいしいものを食べたくなって、ピェンロー(レシピこちら)を作ったり、餃子を包んでみたり、用事で広島に出たら、ついでに駅ビル内のお好み焼き屋に吸い込まれたりしている日々である(いつも行列「麗ちゃん」に並んでみて、牡蠣おこを食べてしみじみ満たされた)。このまま忘年会シリーズに突入しそう。今日は、ご飯を炊いている間に昼間見た「カレー」という文字列が妙に思い出されて、えいやっとカレーを作った。ある程度自炊してると、本当にカレーってあるものだけで出来るんだね。生姜とニンニクと玉ねぎの大振りみじん切りを豚ひき肉と炒めるところからスタートして、カレー粉、酒、ケチャップ、コンソメキューブと水、にんじんとジャガイモ、とここまでを圧力なべで5-10分(なんて適当なの!)、ルーは少な目でたぱたぱしたのが好き。

2015/11/21

イラついた時の処方箋

 まったく、イラつくことの多い落ち着かない週だった。
 夏の夜明け前の瀬戸内海のように穏やかな私が、何をモツ煮込みじみた状況に陥っているのか?というと、別段、周りで起こっているのは普段と同じ日常でしかない。

 まあ、はっきりいって、終盤を迎えつつある困難な仕事がひたすら困難を極めているために余裕がなさすぎる、というのが一番の原因っちゃ原因なんですが。

 でも、何となく、世界を覆う(うっひゃあ!)よからぬ怒りの衝動みたいなのに、感染しちゃってる感はある。各地で人が死んでいることが意識されすぎるとき、しんどい政治的判断がいくつも火花を散らせている時。声をあげることにも沈黙していることにも、慎重さと自分の行動への責任が要求され、そうでない選択をすることに対する非難がにじみ出てしまうような気がするとき、要は、普通に生きて世界に関わるのにいちいち最大限の注意が必要な、ぴりぴりした空気は、内面も下手に過敏にしてしまう。

 それなりに正攻法で打ってでちゃってから気付いてまた自己嫌悪に陥るのだけど、怒りに捕らわれたときには、ある程度分析した後は、原因に直接突っかかっていくよりは、解決するためにもいったん目を逸らしたほうがよかったりするんよね。

 森見登美彦『太陽の塔』を取り出してみましょう。
 書き出しが最高。

何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。
終わりがまた最高だ。

何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
そして、まあ、おそらく私も間違っている。
『夜は短し歩けよ乙女』とか『四畳半…』など、後の作品のほうが、純粋に読んでる分には楽しいのだけど(そうだ、時間が出来たら『有頂天家族』の二部を読まねば!)、惚れ惚れするほど阿呆らしい青春のドツボにいる自分をいまいちきちんと突き放しきれていない第一作に、よりすがすがしいカタルシスをおぼえるのだ。

2015/11/14

パリに

 とんでもなく忙しくて、何であれ外界のことに関心を持っているような暇もないくらいなのだけど、今日はパリの市内複数の場所で起きたテロのことばかり考えてしまうし、きっとしばらく以上の間そうなってしまうだろうと思う。
 朝、Facebookを見ていたら、友人が「私は無事です」と次々に書き込んでいて、何事かとニュースサイトをいくつか確認して、でもしばらくは情報が錯綜していてよくわからず、パリでとんでもないことが起きたらしいということが分かってきただけだった。
 徐々に視野が開けてきて(今になってもはっきりしない事が多いが)、早速各国のニュースを提示しながらTwitterで情報を発信したり意見を述べたりする知り合いや、半分くらい知り合いや、あったことはないけれど知っているような気分のする人々や、全然知らない人々を眺めながら、言葉を使う仕事をしている端くれなのに、こういうときに言葉を発することが怖い、適切なことを発信できる自信がないというのは情けないことなのかもなあ、などと頭の片隅で考えた。一時期ほど多くはないけれどちょこちょこいる、パリの知り合いの無事のメッセージに慰められていた。
 人が死ぬのはどこでもどんな理由でもこたえるものではあるのだが、今回のは、なんだかんだ、今いるところと、実家のある場所と、(場所には思い入れがないが大好きな人の密度ゆえに不本意ながら重要な)東京についで、学生時代に長く過ごした京都と同じくらいには個人的に関わりがあって大事な場所である。お気に入りの自転車で19世紀建築めぐり(つまりパリ全体がそうみたいな感じなんだけど)やお散歩をしていたような場所で、というのが信じられない。遠く離れて安全な場所でミッション目白押しでも、頭がぞわぞわと落ち着きなくなってしまうのも当然の話だ。へたくそでもピアノが弾ける(能力ではなく環境面で)というのはこういうときに有難くて、手に覚えた曲をいくつかとてもゆっくりと弾いてみたりする。

 ニューヨークの同時多発テロと同じくらいの大事件だ、という人もいる。そうやって流れていく文字を目で追いながら、あの時、翌日に無責任に色々としゃべくっていた無邪気な高校生たちであった自分らをおぼろげに思い出して懐かしくなったりする。
 それなりの年月を経た今、私は世界が結構あっさり変わってしまう事を、生々しく知っている。
 飛行機に乗るたびに煩雑になる検査には慣れっこになっているし、(とは言ってもヒースローは格別、観光シーズンの新千歳空港で歴戦練磨の私も辟易した)、8年くらい前に、語学学校で会った素敵なマダムに「いつでもいらっしゃいね~」と言われていたエジプトは、随分前から不要不急の渡航はやめるべき地域になったままだ。5年くらい前に旅行の写真を見せてもらっていつか行きたいと思っていたシリアは、しばらくどう頑張っても行けそうにない。壊されて二度と見ることのかなわない遺跡もある。
 何かおさまりのよい言葉でしめるとよいのだろうけれど、今はそこにいる人々のこれからの無事を願いつつ、怯えている。それから、死んでしまった人々や私の知っている街から少し変わってしまっただろうパリを悲しんでいるし、出来るだけ悲しみや憎しみをこれ以上に増やさない為にはどうしたらいいのかと考えている、というか、困っている。

2015/11/09

十月弁当(一部)

 新米の季節になると、自分の家で炊いたご飯があまりにもおいしいもので、とてもコンビニおにぎりなど買う気がなくなってしまう。
 それで、大変な時期を乗り切るためにもお弁当をいそいそと作ることになる。昼に弁当を持参しておけば、帰れなくて夜が学食とかになってもやや罪悪感も薄れるというものです。
 といって、見てのとおり、すごいものを作るわけではまったくなくって、夜にちゃっちゃかできる簡単な炒め物ばっかり。しかもしばらくゆかりご飯にはまってたらしくご飯が同じような色合いです。
 にんじんだらけのは最近のお気に入りで、一本のにんじんを細く切ってレンジで2分、その後オリーヴオイルと塩とバルサミコ酢をちょっとづつかけて和え、朝まで冷蔵庫に入れておくというもの。あったらレーズンなんか混ぜるとおいしそう。
 きんぴらごぼうは締め切りハイで頭やられてノリノリで作ったらめっちゃ辛かった。





2015/10/20

この佳き日に届けられしもの!

 おりしもStar Wars VIIフォースの覚醒のフル予告編が!と大騒ぎになっている本日。ちょっと前に注文していた『もしシェイクスピアがスター・ウォーズを書いたら まこと新たなる希望なり』が届いたのでした(アマゾンの本のページはこちら)。
 東大の先生でEテレの「100分de名著」の『ハムレット』に出てらした河合祥一郎氏が脚韻も名言のパロディも原作者以上に本格的にノリにノッて日本語にしちゃってるそうで、オープニングロールの♪ヤン!っぱぱぱーーーっっっぱぱぱーーーん…のとこが、以下。コロスの台詞(コロス!へ?と思ったが、シェークスピアではコロスが頻繁に登場することはないと訳者あとがきに)。


今は昔、内乱の物語。
秘密基地より出撃した叛乱軍の宇宙船は、揚々、
残虐な銀河帝國に対し、初勝利を収めるに至り、
ついに帝國の艦隊は宇宙を彷徨う。
戦闘中、叛乱軍の斥候、敵陣へ行き、
盗み出した設計図で明らかになる巨大宇宙要塞、
デス・スターの全貌。これぞ恐るべき最終兵器。
その強力な光線は惑星をも紛砕。
レイア姫は、冷酷非道な追っ手を逃れて、
今や故郷へとひた急ぐ。なんとかして、
設計図を届け、自由な銀河に憧れて、
新たなる希望を実現しようとして。
我らが芝居は遙か昔、未来ではなし、
遠き不幸な銀河に起こりし話。

 ソネット形式ということで、行の終わりの音(脚韻)が、「たり・よう・たり・よう、いき・さい・いき・さい、れて・して・れて・して、(は)なし・(は)なし」、とabab cdcd efef ggと揃えられているのでございます。
 シェークスピアのファンとしてもスターウォーズのファンとしても末席の端っこにも指先も届かない半端もののただのミーハーに過ぎない(強いて言うなら大真面目に知力の限りを尽くした冗談とこねくり回した古風でみょうちくりんな日本語には目がない)この身にとっても有難き幸せな素敵な気晴らしになりそうな本であります。

2015/10/05

眠れ子よ

 またしても、うっかり胃の調子が難航。うどんのゆでめんを買ってきてめんつゆにショウガ、青菜と卵だけで食べる。ちょっと疲れてたり、仕事や研究にプレッシャーがあるときに限って、油っぽいものでガツンとやりたくなるんだけど、それをやっちまった瞬間にこれ。この年なのにおでこにぼつぼつは出来るし、最悪である。まあ、今日は早いとこ眠りましょう。この秋初めてカシミアの入ったカーディガンを着たこんな寒い日には、布団にくるまってよく眠れそう。

2015/09/22

引きこもりらしく家の写真でも

 アントウェルペン、旧市街の中心からは離れた、比較的新しく広い街路沿いの家並み。大きい窓にアールヌーヴォー~(一部)デコの装飾が施されたファサード。間口は見た通りだがおそらく奥行きがかなりあって中庭からも採光する。
 前に庭なし・庇なしでこの大きさの窓をみると、まず心配になるのは夏の暑さだけど、この街は基本東京より5-10度気温が低い。手入れをしてある家では、きっちりと密閉した窓にして冬は寒さより光が入れられるようにしてあるのだろう。とはいっても天井が高い分冷えそうだけれど。
 一階が店になっていたり、全部を銀行としていたり。

 上はメインが二階、下は三階のほうがゆったりしてそう。


角に丸みを付けつつ、シャープさが残っているのがいい。ごく上等のチョコレートケーキのようではないですか。窓枠が黒というのもスタイリッシュ。


2015/09/15

間延びした九月さえ半分が過ぎ

 高原ホテルでの缶詰め生活も案外あっという間だった。といっても昨日はついつい学校の図書館で資料を漁り、ないものだからいくつも注文してしまったし、他にも色々で、なかなか缶詰にもなってられない世知辛い世の中(なのか私がフラフラしてんのか)にございます。
 土曜は色々と買い物のためにそこそこの都会に出る必要があって、何となく広島に行くことが多かったのだけど、ふと思いついて山陽本線上りに乗って岡山まで行ってみた。駅の近くへの諸々の集まり具合ではこちらの方がひょっとすると便利かもしれない。
 なにより、駅の近くのくせに巨大なイオンモールの中に、ブレッツカフェを見つけたのがうれしい発見だった。これは、パリで誰かが「パリで一番おいしいそば粉クレープの店」といってた、東京に拠点のあるクレープリーでございます。(こちらがHP→ル・ブルターニュ
 「きゃーっ」と思って、用事のあらかた済んだところで、夕方の人のすくない時間だったが、早めの夕飯と思って勇気を出して入り、しょっぱいガレットを頼んだ。実は昔ブルターニュで知人が「バターだけ」のガレットを食べていたのを見て、あれぞひょっとしてクレープの王道か、蕎麦やのざるそばか、イタリアンのペペロンチーノか!と妙に恰好よく思われたことがあり(彼女のお父上は料理人さんだったらしく、そんなグルメ情報も併せての感想である)いつかやってみたいのだが、そもそもメニューにないものね(メニューにないものを頼むほどお洒落してなかったし!)。ジャンボン(ロースハム)のコンプレ(ハムかベーコン・卵・チーズの全部のっけ)に、セットドリンクで甘くてごく軽いシードル(リンゴ酒)をいただきました。パリパリで、やっぱり美味しかったし、ハムがフランス風の肌理が粗くてさっぱりしたものの厚切りなのがうれしかった。

 にしても、秋は涼しくなって読み物・書き物などにぐっと楽に集中できる、仕事の季節でもあるけれど、同時に色々と誘惑が増える時機でもある。何しろ美味しいものが多く、毎年不思議でしょうがないのだが、秋冬の服は何故あんなにも欲望を刺激するのか。
 しかしまあ、我々にとってのお勉強対象はまた、感覚に供するご馳走としての側面ももっていることだし、美しい絵画、陶然するような文章、心惹かれる服、幸せな食事、そういったものの友でありましょう(これは余裕ってわけではないの。むしろ全部のっけせねばとてもやってられない)。

2015/09/10

家に居ながらにして高原ホテルに缶詰めするには

 何しろこの夏はもろもろの事情が自身の怠惰とうまい具合に絡まり合いながら積み重なった結果として、瀬戸内脱出に完全に失敗してしまったのである。目の前には大量にして困難なる仕事と間延びした九月。ヴァカンスが身に過ぎたことだというにしても、仕事ペースは落とさず何とかして気分転換する方法はないものか。
 夏季研修休暇なるものが四日も余っていたので、(来週一杯で取らなければならない)とりあえず明日からしばらく休みを取ってみた。一応資料を探しに毎日山に登らなくていいくらいの本は持ち帰ってきてみた。客人が去ったタイミングである程度掃除が済んでいるので、高級ホテルまで行かないまでも部屋はそこそこに快適だ。エアコンが不要になってきた時期もいい。というわけで、ちょっと家にいながらにして高原ホテルに缶詰めする気分で過ごしてみようかと思う。

2015/08/20

CIAの浮気方式

 自分の日課だったり、考え方だったり、単純作業の進め方だったり。何気ない動作に名前を付けて定式化すると、忘れずにこなせたりうまくいったりしやすく、人に勧めるときにも便利だ。
 
 幾分以上に不謹慎かもしれないが、二人で食べ物を分配するときは「シベリア抑留方式」である。
 まだ子供だった時分、元抑留兵の体験談を話してくれた方がいて(つまり又聞きなのですが)、乏しい食べ物が収容者二人づつに配られる。その時に二人で分ける方法は、私たちが姉妹や友人同士でやるのとまったく同じで、一人が分けて、もう一人が先に取る、というものだった。これをもって「シベリア抑留方式」と呼ぶ。
 なお、本場ではスープなどの時は、スプーンで一杯づつ、順番に食べたという。お互いにずるしないように、飢えて落ち窪んだ目で相手が食べるのをじぃーっと見つめる。話を聞いたときには、こちらのイメージが強烈に喚起された。
 
 最近大活躍なのは「CIAの浮気方式」である。
 4年ほど前のニュースで、データのハッキングリスクに詳しいCIAの捜査官が浮気に気付かれないように採用した方法から命名した。その方法とは、共用のGmailアドレスを取得して、下書き保存した文書を用いてメッセージのやり取りをすること。これは、それまでわざわざ二重にバックアップを取りたい文書を「自分にメール」してた私には、目から鱗であった。無論、自分だけの仕事なら共有アドレスなんてものも必要ない。以来、どうしても不安なときには、dropboxとUSBに二重に保存した文書をさらに、「CIAの浮気方式でバックアップ」することにしている。
関係ないけどかき氷。尾道山手の光明寺会館にて、手作りのブドウシロップが殊の外美味しく、うれしい驚き。

2015/08/12

京都みやげ

 暑いのが悪いのか逃げ場なく論文やってるためか、お決まりな感じだけどお腹が弱ってきてるので、晩は敢えての温かいにゅうめん。生姜をきかせた鰹出汁でもやしと鶏もも、茹でて冷凍してた菜っ葉、卵と、どこまで~もやさしい食べ物ですが、最後に京都で買ってきた七味をふたふり。本当はスパイスもよくないのだろうけれど、京都の七味は辛みより山椒が効いてて味が鮮やかになります。
 京都といえば、水族館で思わず連れて帰ってきた水族館のアイドル、オオサンショウウオでございます。30過ぎてぬいぐるみもないと思う常識は一応装備しているつもりだけど、これには負けた。結構リアルにオオサンショウウオっぽく再現してあるから、まったくきれいな色ではないし、離れた目や手足が若干グロテスクなのがいい。写真よりは細くて、全長120cmくらい。我が家ではヘタレっぷりを評価して"たれちゃん"と呼んでおります。

2015/08/11

夏休みらしきもの。

 オープンキャンパスが終わって、盆前のこの一週間は学食も(イン)コンビニも休みだから、残っている者なんて私くらいだろう、と悲壮な面持ちで食糧を買い込んで山にこもってたら、意外にも結構な方々が残っていてかつ構ってくれて、悲劇のヒロインな心境に陥らずに私なんでもないわってクールな気分で仕事をすることが出来た。出来栄えがクールというわけにいかないのがつらいとこだけど、兎にも角にも有難い。しまいに学生サンが営業にやってきてうっかりオリジナル手ぬぐいを買ってしまう。手ぬぐいは割と好きなアイテムなのである。
 今日の昼はリトルマーメイドのラタトゥイユの入ったカルツォーネ(これは名作)とレモンパイ、夜は空腹すぎて何をやってるのかわからないうちににんじんとかピーマンとかソーセージとかがごろごろ入ったカレー風味の焼き飯に目玉焼きがどんっとのったなんちゃってカフェ飯(これでも褒めすぎ)みたいな感じになった。昔左京区の東一条のイタリア会館にまだサンシャインカフェがあった時に、ケイジャンライスとかドライカレーっぽいものとか、なんかご飯とおかずをごちゃまぜにした感じのがあって、適当くさくておいしかった。懐かしい。
全然関係ないですが去年の夏に行ったブール・カン・ブレスの旧市街。年の四分の一くらいは発症する旅に出たい病。

2015/07/19

そうめん~主題とその変奏~デザート付

 今日はさすがに暑すぎて、休日としてはマッハで学校に避難して研究にいそしんでいるが(今は食休み中)、昨日はまだ凌げるくらいだったので、台風のために持ち帰っていた資料とそのまま家で過ごしていた。
 昼はそうめん。
 安いし、すぐに茹で上がるから火をつける時間が最小限で済み、食べやすいので、1人暮らしの夏の昼はそうめんが大活躍です(大家族だったらゆでるだけで重労働だろうが)。
 めんつゆにつけて食べるだけでもおいしいし、玉ねぎのすりおろしとか入れてもおいしい。ここしばらくのお気に入りは、薄めに溶いてかけつゆにしてしまって、その上に野菜のおかずをどんっというもの。お浸し、胡麻和え、ナムルの類は間違いがないし、茄子とか小松菜とかを甘辛く炒め煮にした奴だったり、ラタトゥイユ風のものだったり、バジルとトマトのマリネを乗っけたこともある。要は残りおかずを、さっぱりしたものならそのまま、肉が入ってたり油っこかったらちょっと温めてもよくて、なんでもアリ、anything goesでございます。昨日などは、デラックスにも飽きてきたので、初心に戻ってつけだれで、めんつゆに辛みネギ油を入れた。青ネギを荒い微塵にしてごま油とコチュジャンと一緒に混ぜる。お好きだったらお酢も少し。野菜の素揚げとかざく切りトマトも合いそう。今後の課題としては、ナンプラーを巧く使えるようになりたいと思っている。前に居酒屋のようなところでトムヤンクン焼きそばというものを食べて大層おいしかったので、あんな感じのものをそうめんを使って一瞬で作れたら夏も結構悪くないのではないか。
 それとは別に、実家から救援物資として届いたメロンを昨日(!いまだ!)と思って冷蔵庫に入れて、今朝食べたら、どうやら完璧なタイミングだったようで、あまりに官能的に美味しくてすっかり幸せな気分になったところ。なんでも、一番おいしい時に一番おいしいところを一番おいしく食べたいという、誰が相手というわけではないが確実にこれもひとつの戦いを生きていて、だからメロンなんていう難しくて取り返しのつかない果物のおいしいところを捕まえられたときには、してやったり、と頬がゆるむってもんである。

2015/07/17

嵐の只中に ―私たちはもっとわがままにならなければ―

 高音で電線を鳴らしながら風が吹いている。

 小さいころの私は、自分でもはっきりと覚えているくらいに大きな音が苦手だった。暴風や雷の時、工事車両や除雪車がゆっくりと家の前で作業をしているときなど、感覚的な恐怖に、泣いたりとかもしたんじゃないだろうか。それで、母の発案だろうか、そんな時には我々姉妹はジグソーパズルで遊ぶことになっていた。外の世界で起こっていることは何一つこの小さな家の中の平和を乱すことはないのだから、耳を澄ませなければ、観なければ大丈夫。気を紛らわせるには、パズルは最適だった。
 大きな音に対する感覚的な恐怖を克服したのは、これもはっきりと覚えているのだけれど、小学三年の冬に吹奏楽を始めた時だ。トロンボーンのすぐ後ろはティンパニやシンバルで、轟音が腹に来る。反射的に身を縮め耳をふさぎそうになるところを、少しずつ抵抗を解いて、その音を体に浸した。寒い日に外に出るときに少しずつ呼吸を合わせて冷たさを全身に感じながら体を慣らす要領で。その合奏の間に腹に響く轟音は心地の良いものになった。
 自分が大きな音を発することへの抵抗はその後も続く。中庸の美意識、というとそれなりに素敵だが単なる怖がりなのか、声を挙げたり音をだしたり食べたり遊んだりしゃべったり噛みついたり、といったいちいちを、思いっきりやるところに行く手前で躊躇して手加減しまう。何度も、その時々に出会った人や物事を通して、思いっきり出していいんだよ、ということが腑に落ちて、リミッターを外せる、ということがあって、その度にすごい解放感を味わってきた。時間が経つと忘れてしまうので、たびたび自分でも、外していいよ、と言ってやらなければならない。

 実は授業準備も論文書きもしなければならないけれど、台風の夜にはあんまりにあらゆる方向が嵐なので、こんなことを思い出してみたりしていた。

 気が付いたら大きくも小さくもすっかり乱世である。どこでも、責任と権力を持っている人や組織が、自分の周りのごく狭い利害ばかり考えて身勝手な決断を下すのがなんでか許容されていて(それに飽き足らずより大きな力を求めたりするが、まともに使えやすまい)、その反面、下っ端の我々や市井の人たちが(なんでか)(どこにあるのかしらない)「全体」や「集団」の利益を尊重して行動することを強要される。私たちはもっとわがままにならなければ。

 歴史やファンタジーで一番わくわくするのは、乱世を乱世と、敵を敵と認識して、今まで見えなかったり目をそらしていたその敵に立ち向かう場面だ。その先には、決裂や停滞もあるけど、自分や仲間の成長なんかもあったりして、何より、身体を縮めないで状況を肌で感じながら、力をフル稼働させることそれ自体が愉快だ。自分の考えで、状況に立ち向かえることの自由。

 そんなんで、ここ何日か各地で行われている運動の様子を写真などで見てると、近くにいたら加わってみたかった。それに関連して…。

 【再掲】「パリのデモから考える」
 國分功一郎さんという方のブログの記事で、パリのデモが、いかにだらだらと秩序なくごみをまき散らしながら進んで行くかが楽しげに書いてあるのですけど、ちょっと引用。
・・・・
「デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しようとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。
 パリのデモでそれぞれの人間がそんなことを思っているということではない。多くの人はなんとなく集まっているだけである。だが、彼らが集まってそこを行進しているという事実そのものが、そういうメッセージを発せずにはおかないのだ。」
・・・・
で、政府は、デモの権利を認めることでそれを無理やり体制の中に、秩序の下に組み入れるわけだが、デモンストレーション、示威行為というのは、その性質としては大人しく収まっているようなものではないわけ。きちんと問題を理解した人が、ゴミなんか拾っちゃって整然とコールしながら歩いたりなんかしなくていい。群衆が目に見えて出現することが一つの力なのだから。で、どうこれを使うか。という話。正直全部きっちり理解できたか怪しい部分もあるけど大変に面白かった。

 ついでにもう一つ、最近ちょくちょく訪れている正体は知らない男性のブログ記事である。
「ギリシャ経済危機を見て考えたこと」ーガメ・オベールの日本語練習帳
 これは、冴えてセンチメンタルな自由についての話。引用。
・・・・
「人間の自由に価値があるのは、その「自由」が共同体の価値を脅かすときに限られる。
社会の生存が脅威にさらされないような自由は実はただの思想的な自由にしかすぎなくて、個人の「わがまま」と共同体の利益が相反するときにのみ「自由」は真の価値、本来の性質、言葉の真実を個々の人間に向かって問いかけはじめる。」
・・・・
 あるいは、この方が別の場所で使っていた「魂に染みついた自由」(ちょっとあやふや)という言葉。
 これが多分、たまに私を使いにくく思う方がいたら「だから外国かぶれは…」と毒づきたくなるものの正体かもしれないし、フランスにかぶれるずっと前から、多分小学校のある担任や中学校のある担任の先生を苛立たせたものとも通じるのだろうと思ったりする。


 わがままに生きていきたいし、納得出来ないことをやりたくないので、「汝の意志の格率が、常に同時に、 普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」みたいなことも考える。
 コレって、みんなのことを考えておとなしくしていなさい、というのんとは違うよね。
 ただまあ、面倒になってそんなのぜーんぶ、糞喰らいあそばせ、な気分になることもままある。


 風に吹かれて支離滅裂に。


2015/07/14

「どなたがハイヒールを発明してくれたのか存じ上げませんが、女性は感謝の念に堪えません」

表題はマリリン・モンローの名言らしい。
 彼女の映画『お熱いのがお好き』が大好きで、マリリンの膝下スカートから除く美脚を、後ろに縫い目のある絹のストッキングとハイヒールがラッピングしている様子のセクシーさったらない。この中では主演の男子二人、ジョーとジェリーが女性ばかりの楽団に雇われるために女装してハイヒールに苦労するシーンが出てきたりします(そしてジェリーが階段をふらつきながら昇るその足首を億万長者に見初められる)。

 男性が1日ハイヒールを履いてみたらというトピックを見て、そこかしこの女性たちが、ハイヒール、化粧といった体力も財力も喰う「身だしなみ」を「失礼がないように」「マナー」として装備しなきゃいけない状況の不条理を訴える様子に、またまた疲れてしまった。
 人が無理を耐え忍んでいる様子を見るのはつらいし、そうしなければいけない状況があるという事実につかれる。中高の制服あたりから大多数の女子が不自由を当然のこととして育っちゃって、あきらめムードが余計に無力感をあおる。
 送り迎えのお車から席に座るまでの間、多くの場合支え(男子)付で歩くレッドカーペットの上でも、ヒール強要は変じゃないかっていう議論もちょっと前にあったくらいなのに(カンヌ映画祭ではハイヒールがマスト?)、仕事だったらなおさら邪魔なときの方が多いだろう。
 
 幅広甲高のおおきめの足が短い脚にくっついた私が、自分に合う靴を見つけるのは結構難しい。「アミはいつも靴を探している」と言われるくらい靴が悩みの種だ。しかも、タクシーからレッドカーペットの上を歩けばいいのではなく、どんなにお洒落だけするときにでも展覧会1つと常設展位歩けるか講義2つくらいは出来るようでなければそもそも出番がない。…と、それでもあきらめずに常に探しているので、靴について語るとなるとどんだけでも語れる気がするが、大事なことは、ハイヒールが大好きだけど、あれは嗜好品で、マナーとして暗黙裡に強制されるもんじゃないだろってことだ。

「ハイヒールを一足頂戴。それさえあれば、世界を征服できる」とはマドンナの言葉。
 普段の機動力を抑えるための纏足じゃない、満を持して天下を取るための武器であってほしい。てのはまあ、言いすぎかしらね。でも、誰にとっても。なんなら男子もたまに使ってみるといい。ほんの7cmでも、視点が上がるってかなり気持ちいいから。

2015/07/13

地盤上の心理的な戦い

 まだ暗いうちなのに、何か目を覚まさせようとする者が頭をもたげてきて、まだ早いよ、暑さで夜中に起きる時期じゃないよ、寝てようよ、と念じながら薄目を開けると、一拍置いて建具が静かに音を立て始める。
 それほどじゃないな。前回初めてこの家で地震に遭遇したときは、震度4に近い3でかなり長く、その間に勢いが強まるタイプで不安が掻き立てられた(慌てて南海トラフについて調べ始めた)が、今回はそれほどでもないのがすぐにわかった。本棚は廊下にあるから私の身はとりあえず安全。目をしっかり開けて、耳を澄ましているとやがて揺れが収まった。
 ipadで天気予報のページを開くと既に速報が出ている。震源という大分県が思いのほか近いのに驚く。機会がないとこちら側を中心に日本地図を見ることがないから、九州は十把一絡に南の島というイメージだが、瀬戸内海と伊予灘を囲むようにしている大分・愛媛・広島三県は実はお隣なのね。
 兎も角、まだ三時だから眠らなければならないと思って、汗をかいてしまったのでTシャツを替えて一時間だけ冷房をつける。と、視線の先に白い大きな直方体状の塊が浮いているのが見えた。
 …や、いやいやいやいや…。
 本棚のことしか考えていなかったけれど、夜中に大きな地震来たらもっとマズいもの、あるじゃん。丁度頭の上に設置されている、エアコン。
 さて、困った。これが万が一落ちてきたら、顔に直撃だ。この程度でどうにかなるような美貌じゃないけど、緊急時に鼻の骨が折れているとかは大変そうだな。頭を打って意識をなくしたら逃げ遅れるかもしれないし、脳震盪で記憶をなくすかもしれない。どう配置換えしたら少なくとも頭に振ってくるのを防ぐことが出来るかしらん、今日のところは枕を逆にした方がいいのかなあ、と、霧ケ峰(家にもともとついていた)をにらみつけて、しばし。
 しているうちにどうやら眠ってしまったようで、寝ている間に霧ケ峰が降り注ぐこともなく、今日も元気です。

2015/07/12

夏が来る

 梅雨あけと台風が重なってまだうじうじしているようだけど、この空気は、一瞬の日差しの強烈さは、夏が来ているに違いない。毎年思うけれど、祇園祭って素晴らしいタイミング。祭りが湿気を追い払うと言わんばかりに、律儀に15日前後から本格的に熱くなる。
 こちらの土地でもあらゆる植物のエネルギーが里山の一車線の道なんてあっという間に埋めてしまいかねないくらいの勢いで渦巻いている。アジサイの頃の甘い香りにかわって、むっとするような湿気と青臭い匂いが充ちている中、散歩している途中に両側には、一旦は征服した自然に抗い続けることをあきらめて、大人の背丈を簡単に越えてしまうような植物の繁茂する空き地になってしまった元・畑がちらほら見える。一応舗装されている山道の両側から草や蔓がこぼれ出ていて、その下に、本当に目を凝らさないと見えないような擬態でマムシが潜んでいたりする。頭の側を窮屈に折りたたんだその姿は、すぐに跳躍出来るようにバネを溜めているみたい。1mは跳ぶというんだから恐ろしい。
 軟弱な私は一時間も外にいて部屋に入ると、冷房の有難さに心底ほっとする。けれど、軟弱さも筋金入りだから、冷房にあたりすぎると今度は頭痛やら肩こりやらに悩まされることになる。毎年身体のむくみが気になるのもこの季節で、どうしたらパフォーマンスを保てるのか考えどころだ。

2015/06/15

スイッチが、オフだぜ

 これは少し前の話なのだけど。
 妹から再三勧められていながら未読だった『宇宙兄弟』を何かの拍子で読み始め、あんまりおもしろいので既刊分読破してしまった後のこと。
 報告して、ついでに感想戦やりあうまでが漫画の愉しみというやつでさ、やっぱり最終選考の時の密室だよね、いやいや、などとまずは緒戦、「名場面」編で剣を交える。そののち彼女は「いいことたくさん言ってるんだよね~、迷ったときは楽しい方を選べ、とか」とシャロン博士の言葉を引いて、感想戦中盤「名言」編にコマを進める。そののちには、「名脇役」「名擬音語・擬態語」「名アングル」「名表情」「名伏線」「名未回収のプロット」と幾多のステージが待っているわけだが、「名言」の話にしましょう。
 私にとって超弩級は、「俺の敵はだいたい俺です」と決まっている。出所は十一巻後半、宇宙飛行士候補生(アスキャン)として訓練中の六太が上官のビンスに、君の敵は誰か、と訊かれた時に、有人宇宙開発を邪魔するマスコミ、科学者、ロボット業界、天文学者などの候補を退けてこう答えるのだ。続きはこう。「自分の”宇宙へ行きたい”っていう夢をさんざん邪魔して、足を引っぱり続けたのは結局俺でした。他に敵はいません」
 私はこの部分、何度読んでも響いて仕方がない。

 自分の邪魔をする自分というと、論文読むときに漫画を読んだり、筋トレすべき時にドーナツを食べたりする奴のことかと最初は思うんだけど、そっちの阿呆のことではない。
 その阿呆の後ろにいる、もっと賢くて、目端が利き、分別があり、未来のことをよくわかっていそうな奴のことだ。
「おまえがちょっと頑張ったところで出来ることじゃないんじゃないの?」
「そんなことやって誰が喜ぶの?」
「調べても答えは出ないんじゃないの?」
「つながってると思ったのは勘違いじゃないの?」
「どのみち評価されないんじゃないの?」
「何の役に立つの?」
…いかにも正しい顔をしてそんなことを囁いてくる奴だ。その所為で、本当んところちょっと面白いけど大変でスリルがありすぎて不安にもなるし畏怖もするような過程全体が、現世的な不安の塊にしか見えなくなって、安易な逃避に走ってしまうんだよね。しかも、世の大勢の意見は(少なくとも目に入ってくる嵩の大きいのは)こっちに近い。げに、雑音ばかりで軸足の置場を勘違いしそうになる、勘違いしているのは私だと思い込んでしまう、思い込まされているのはどちらだ?何のために?
 安心しよう、そいつは未来のことなんか何にもわかっちゃいない。

 二週間前に色々終わった瞬間からしばらく、なんの文章を読んでも好奇心が湧かず、絵の前に立っても言葉が出てこない、挙句の果てに気晴らしに手に取った活字の中身も頭に入ってこない、映画を見ても場面を思い出せないという状態で、機械的に論文読んだり資料整理したりしてたのだが、やっと好奇心が復活してきたらしい。
 そうそう、漸くスイッチがオンになってきた。
 文章という文章が書けない時は駄文さえ書けないものなので、今は駄文を書いていることもうれしい。

2015/06/13

さっぱりしたいので

 梅雨入りの所為か何のためか、本業、生活、プライヴェート、どれをとってもなんとなくモヤモヤとしていて見通しが立たないのに、いい加減嫌気がさした。
 目下最重要課題はちょっとやそっとではびくともしないから、せめて目の前にある宙ぶらりんなものたちを片づけようと、ブランチに薄いコーヒーを大量に流し込みながらまずは旧パソコンからデータを完全に移行する。2009年からよく頑張ってくれた白のラップトップは、ここのところとみに遅くなって(去年夏に新しいノートを手に入れたあたりから顕著に…やっぱ浮気ってばれるわね)たまに開いても思うように手になじまず、ただ半端に移行していないデータのために家の机の一部を占拠していた。データで膨らんだ遅いマシンから写真やpdfをポータブルHDDに移し始めると、七時間だかかかるらしいので、その間に働くことにする。
 シーツと枕カバーを替えて洗濯に取りかかり、普段使いの物ばかりなので、漂白剤も入れて殺菌、併せて家中の水回りのぬめりを除去し、排水溝を掃除、トイレと台所の床の水拭きして、風呂掃除をデラックスで行い、洗濯物を干し、棚の上に積もった埃を除去し、掃除機をかけ、鏡を磨き、もう使っていない化粧品を捨て、第二弾にエマールで洗濯機を回し(信じられないことに、まだ仕舞っていない毛糸の物があった)、電気ストーブを押し入れにしまい(信じられないことに、まだ出してあった)、漂白剤の散文的なにおいを消すべくゼラニウムの香油をアロマポットで焚くうちにデータの移動が終わったようなので旧ラップトップを押し入れに入れ、たまっていた処理済の領収書の類を封筒にまとめて机を水拭きした。だいぶんすっきりしたついでに、みすぼらしくなった下着をいくつか捨て、だめ押しに、もう破れかぶれだけれど昔はずいぶん気に入っていたのでどうしても捨てるところまで踏み切れず、幸か不幸かここの日常にはあまりときめくような場面はないのだが、そんな可能性があるような日には間違っても履かないだろう靴を二足処分した。
 滞っているときに水回りの掃除をすること、靴を買うときには古い靴を処分すること。この辺は昔の同居人の方針であって、私は忠実に守っているわけではないが、たまに真面目に実践してみると効果の絶大さに恐れ入る。
 論文を読んで、まともにピアノの練習をして少し汗をかいたついでに家の周りを走ってみる。走るのに関してはだんぜん、山の中の方が気持ちがいい。

2015/05/06

心に留めるべきこと

 かなり手記の類を真面目に残している人を研究していると、言葉の威力というものは凄いもので、どうしても言葉の形で記された出来事や思考に頼ることになる。悪いことではないし、信頼できる一次資料であることは確かなのだけど、言葉の形で残っているのがすべてではないということは繰り返し心に留めておくべきだ。例えば私は、案外とこの瞬間この世界に生きている人のなかでは自分について色々の手段で文字で残すに飽き足らずに、うっかりみんなが読めるようなところに置きっぱなしにしちゃったりしている方だと思うけれど、だからと言って、文字に残されている部分が自分自身の経験のどれほどを表しているかというと、本当に微々たるものじゃないかと思う。そういってしまうと身も蓋もないような気分にもなるけれど、人ひとりの経験と印象の全体なんてものは、大前提としては身やら蓋やらに閉じ込めてわかった気分になれるようなものではない。そういう畏怖を持って、手掛かりが十分に限られたものであることを頭において、あちらこちらから拾ってきた小さな破片を、丁寧に紡いでいくこと。

2015/04/08

アントウェルペン写真など

 あんまりちゃんと書いてる暇がないので、さしあたり写真を挙げておこう。三月末のベルギーはアントウェルペン(アントワープ/アンヴェール)、凍り付きそうな雨が降り、外出禁止にしたい風が吹く冬の街でした。
 中央駅。点前の標識は多分、風で倒れている。自転車乗ってる人は良く見たし、きっと簡単に使えそうな貸自転車も見つけたけど、ちょっと信じられないくらい風が強いので断念する。 
 ちなみに、この真っ赤な列車でパリから陸路で乗り付けて来た。

 この電車、食事つきだった。朝の時間帯だったので朝ごはん。クロワッサンとゴマパン、コーヒー、オレンジジュース、パイン、ヨーグルト、ジャム、それと、フランス風の甘いチョイスだと左手前に出ているリンゴのパウンドケーキ、塩辛いもの入りのでお願いするとハムとチーズがつく。コーヒーのお替りも出るし、途中で停車したあとまた飲み物とお菓子を勧められるし、すごい歓待ぶりだった。

 アントウェルペンの駅舎は中も素敵だった。赤い色が効果的。線路が上下に三本くらい重なって乗り入れていて、その間を階段とエスカレータがつなぐ。

 け~ど、よそ者にはなかなかの迷宮で…。大体降り立って人の流れに沿って行くとインフォメーションセンターが見つけられそうなのだが、表示が分かりにくくて荷物を持ったままずいぶんうろうろ迷った。大きく見える表示がオランダ語(フラマン語)しかないので余計に。
 なんとか見つけて、地図とホテルまでの道順を訊ねることが出来たのでよかったのだけど、アムステルダムみたいにぜーんぜん英語で事が足りて憎ったらしいくらいペラペラとか、ドイツ語圏スイスの要領で表示がことごとく三か国語、とかじゃないので少し驚いた。


 雨の中で動き回るのに忙しくて忘れそうになってたけど、母親からのメールで思い出して、ベルギーワッフルも食べた。スタンドで焼いている。日本で普通に売られているマネケン(だったっけ?)のベルギーワッフルの1.7倍くらいあって、でもしっかりバターと砂糖の入ったリエージュワッフル。

 クリームつけなくても十分甘くておいしいってわかってるけど、(クリームは缶からシュワーって入れる適当な奴だっていうこともわかってるけど)でも「クリームつけるかい?」って訊かれたら、つけてって言っちゃうよねえ。

2015/03/26

信じがたい阿呆があり得ない幸運で助かった話

 海外旅行(出張/留学/etc. )に行くときというのは、前回のリストみたいにしていろいろと準備が必要なのだが、結局のところは「パスポートとカードがあれば後は何とかなるから!」に尽きる。
 あとは遅刻をしないこと。もっとも、私なんぞはドキドキしちゃって遅刻なんてそうそうできそうにない。寝坊したり浴びるように飲んでて時間の感覚をなくしたりして、飛行機に遅れた武勇伝など聞くと、「なんて大胆な人なんだ★」と感心してしまう始末。んなもんだから、ましてパスポートを忘れるなんていうのは、別世界でしか起こりえないことだと思ってました。

 まっさか、自分がパスポート忘れて、飛行機に乗り遅れるかの瀬戸際に立つことになるなんてね!!!

 正確には、パスポートだと思って持っていたのが、すでに穴をあけた期限切れパスポートの方だったことに広島空港で気付いたのだ。
 時刻は8:20。飛行機出発が9:10。チェックインカウンターで「こちらもう無効になっているものみたいなのですが」と言われて、言葉を失った。うわあ…やってしまった…。

 カウンター係員の方は流石に立ち直りが早い。私が片道一時間くらいかかるだれもいない家に確実に有効なパスポートを置いてきていることを確認すると、ほぼ間髪入れずに国内線の振り替えが可能か確かめ、10:30発の便なら羽田~成田の乗り換えが規定より五分足りなくなるが間に合う可能性は高いからどうか、と勧めてくださる。羽田~成田が五分足りないのは余程でないかぎり大丈夫だろうが、出発まで二時間ちょっとの間に家までの往復ができるかが問題だ。私は、新幹線という選択肢を頭に置きつつ(それはちょっと調べただけで無理そうなことが判明した)荷物は全部持って空港を出た。
 近くの民営駐車場まではシャトルバスを待つ暇がないのでタクシー。運転手さんは、私の大荷物を見て「旅行だったんですか?」と世間話を切り出すも、私が「だったんですが忘れ物しちゃって取りに家に戻るんです」というと黙ってしまった。

 車のナビは高速道路を使って9:15、使わないで9:30に家につくというので、河内から山陽自動車道に乗った。すぐに本郷からの長い登り坂が始まると、私の可愛いパッソではどう頑張っても100キロ以上は出ないのだが…と、ふにゃふにゃ考えてたら、なんと工事のために一キロの渋滞。これで10分ばかりロスを食らう。
 私は書き終えていない月末までの論文のことを考えて、いっそのことこれは大人しく自分の家で論文をということなのじゃないか?とえらく自信を無くしてしまう。だったら前日(卒業式&謝恩会)もっとちゃんと飲めたのに~なんてどうでもいいことも考える。目の前にシャンパンがあったのにジンジャーエールで我慢してたのは飛行機に間に合うためだったのに!なんて阿呆をやってしまったことか。その後少し取り戻すものの、再度尾道に入る直前で工事に遭遇し、結局9:25分に家についた。

 幸いパスポートはすぐに見つかった。鍵をかけて、今のままでは極めて危うい今度のパリ行について方針を立てる。
 すなわち、(1)まずは生命と安全を確保、つまり、自暴自棄になって事故を起こすほどの事態ではない。それくらいなら飛行機を逃したほうがましだ。まあまた機会はあるだろう。ということで、法定速度の超過はなしね。(2)そして、行けようが行けまいが論文は書くこと。なんだか論文がかけていない罪悪感とテンパりようが微妙に危険な方向に結びついて自分の思考を歪めつつあったので(書けてないからこんなバカなことになるんだ!とか)それとこれとは別に考えなければならない。最後に(3)あきらめないで、とりあえず羽田まで、それから成田へ、行ってみること。

 ちなみに、この日朝ごはんは優雅に空港で食す予定だったので、この時点でかなり空腹だったのだが、(1)の生命の危機に該当するほどではないと判断して我慢して突破することとした。
 広島空港までは今度は下道を使う。ナビがいうには到着予定は10:30。いう通りなら万事休すだが、少し混んでも三原のバイパスで大体10分、空港に向かう山道で頑張れば5分は稼げるはず。駐車場は涙を呑んでちょっと割高な県営を使えば…と色々考えつつ、そのうち色々どうでもよくなってきて、もういい、なるようになれ、とついてみたら10:12だった。
 駐車場から三個の荷物を持って走り、14分にカウンターについてからはちっちゃい地方空港の本領発揮。全日空の係員さんに「間に合いましたね!!」と迎えられ、すぐに荷物を預けて保安検査場を通って…というのを5分で終えて、なんと飛行機に乗り込む前にサンドイッチを買うこともできた。これでもう、自分の過失による生命の危機はない!
 なんだか何事もなかったみたい!羽田についてみたら、荷物は優先的に出してもらえ、そのまま五分後のバスで成田へ。その後も、人の少ない平日ということもあり、驚くほどスムーズに旅程をこなすことが出来た。

 最後にちょっとだけ怖い話。成田へ向かうバスが検問を通過する際、パスポートの提示を求められてふと思ったのだが、実は、広島空港からの国内線では必ずしもパスポートを見せる必要はない。どうしますか、と聞かれてじゃあ、と取り出したのが期限切れで、何とか家まで取りに戻ることが出来たのだが、もし広島で出していなければ、今ここで、成田へ向かうバスの中でパスポートがないことに気付くことになっていたかもしれない。そうなったらもう、完全に取り返しはつかなかった。

 ちょっと信じがたいほど運がツイていたのだと思う。お蔭で、もっと信じがたいほど阿呆なことをしていたのに思いがけなく助かってしまった。

2015/03/19

旅の持ち物備忘録

 早くも三月の後半に入り卒業式まで秒読みにもかかわらず、年始の変なテンションで決めた仕事をサクサクと消化できないまま、とにかく肩が凝っている。家にも学校にも、仕事場にでかでかと「Done is better than perfect」と書いて貼っておきたいくらい、というか実際には研究室にはすでに控えめな付箋で貼ってあるのだが、それじゃ足りないくらい変なプレッシャーまみれ。幸いなのは京都と違って花粉症の症状が軽くて済んでいること。

 こういうときに、具体的なレベルの考え事を頭の中に飼っておくと余計に混乱を招くので、ここで思い立って旅行用の荷物リストを作ってしまおうと思う。国外用。

1, まずは必須品。すべて機内。
1-1, パスポート
1-2, 控え類:航空券eチケット、宿の予約確認書、電車のeチケット、旅行保険の契約書・・・なお、これらすべてとパスポートはPdf化してiPadとパソコンに入れておくこと。
1-3, 財布・・・中にはクレジットカード二枚、海外で使えるキャッシュカード、図書館・資料館カード、予備の1万円札、前回余ったメトロの切符や外貨
1-4, 名刺入れ兼カードケース・・・中には名刺数枚、イコカ
1-5, 眼鏡
1-6, コンタクトケース、予備のコンタクト、コンタクト液の小瓶
1-7, 家の鍵・・・ちなみにこれにはメモリスティックがついている

2, 電気系
2-1, パソコン、ケーブル、海外用ケーブル・・・機内。
2-3, iPad、ケーブル・・・機内。中に関連する論文を入れておく
2-3, デジカメ、充電器・・・預け。
2-4, ポータブルHDD・・・預け。
2-5, 電子辞書、充電ケーブル・・・場合による。本体は機内か。
2-6, 海外用プラグ・・・預け。

3, 仕事関係
3-1, 紹介状、面会の約束のメールプリントアウト、英文在職証明など・・・これもpdfでも持っておく
3-2, ペンケース・・・中には黒い細ペン、えんぴつ、赤ペン
3-3, 仕事途中のノート、暇なときに読みたい論文のプリントアウト
3-4, (おみやげ)

4, リラックス
4-1, 夢中で読める本・・・機内
4-2, 耳栓、イヤホン・・・機内。耳栓でどれだけ旅が楽になることか!
4-3, 落書きノート・・・機内
4-4, ワインオープナー、割りばし、小さなナイフ・フォーク・スプーン・・・預け。キッチン付でないとこに宿泊の時に、これらは意外に使える。
4-5, 地図、(旅行ガイド)・・・預け
4-6, クロックス・・・機内。これはバレエシューズみたいな形のやつ。かさばらなくてホテルの中など楽でよい。
4-7, (エッセンシャルオイル・・・預け。宿のにおいが好みでなかった時のために)

5, 身だしなみ・・・顔
5-1, クレンジングの小瓶、洗顔料・・・機内サイズ、あるいは長期の場合は別にサンプルサイズのを機内持ち込みに。
5-2, シャンプー、トリートメント、ボディーソープ・・・預け。小さいサイズを買っておく。
5-3, 化粧水・乳液・・・機内。いつも使ってるのを小瓶に移して持参している。
5-4, マッサージオイル、ヘアオイル・・・預け。
5-5, 化粧品ポーチ・・・機内。
5-6, タオル・・・大きめのハンドタオルを機内へ、ほか、ハンドタオル複数、ドミトリー宿泊予定ならバスタオルも。
5-7, 洗濯するときは、日本から小分けされた洗剤を持っていくと話が早い。

6, 身だしなみ・・・衣類
6-1, 下着一セットは機内へ。
6-2, 下着、寝るときに着るもの・・・預け。実は多めに持って行ったほうが楽。
6-3, ボトム・・・一つは緊張する人と会う用事でも着られるもの、一つはだらだらできるもの。(この二つは一つで済む場合もある)
6-4, トップス・・・一つは緊張する人と会う用事でも着られるもの、一つは十数時間着ていても全く肩の凝らないもの、一つはパーティやコンサートで着られるもの(場合によってはワンピース)、あるいはこの条件の複数を満たすもの。
6-5, ジャケット、カーデガン

7, 身だしなみ・・・付属品
7-1, 靴・・・きちんとして見えていくらでも歩けるもの、お洒落できるもの、楽なもの、あるいはこの複数を満たすもの(楽なもの、は4-6クロックスで併用可)
7-2, コート類
7-3, アクセサリー何点か
7-4, スカーフ、マフラーいくつか
7-5, 季節もの(水着?カイロ?手袋?帽子?サングラス?)
7-6, 折り畳み傘

2015/02/15

フィクションの土曜

 週末になる瞬間にどうやら気が抜けたみたいで、土曜は朝起きた瞬間から呆けて仕方がなかったので、この際一日呆けることにした。軽くご飯を食べてから、ピアノを小一時間。昼過ぎに家を出て駅前の尾道浪漫珈琲でチョコレートとアイスと生クリームとイチゴののった「ヴァレンタインワッフル」を黙々とたいらげる。それから駅前の映画館で『悪童日記』。その後大学の卒業・修了制作展を梯子した。
 こういうとふらふらっと気の向くままに動いているようだが、完全に計算ずくの一人遊びであり、照準は14:30始まりの映画である。何しろ単館、ちょくちょく好みど真ん中のがかかるのに、大体一日一回だから、余程気を付けてスケジュール調整しないと逃してしまう。今回も真昼間だから土日のうちに行かなければと息巻いていたわけだ。
 『悪童日記』はアゴタ・クリストフの同名小説の映画化で、主人公が男の子の双子なのだが、それを本当の双子が演じている。あれを映像になんてできるのかしら、と疑いながら見たけど、そう、第一部だけだからできるのだった。途方もなくリアルで救いのないおとぎ話として、むしろかなり効果的だ。冷たい灰緑色の支配する風景が、一瞬長閑に見えたと思ったらすぐに容赦ない厳しさに戻るところ。最初に一瞬出てくるブダペストのいかにも裕福そうな室内との落差は激しい。石造りの街が爆撃されるときの音もかなり怖い。双子や隣の女の子は、私が考えていたよりも大きいけど、その分生々しさがある。殺伐とした状況で生き延びるために、自分たちで訓練によってお飾りめいた「人間性」ー弱さとか迷いとかに近いタイプのーを少しずつ剥ぎ取っていくような双子の表情は凄くいい。老人たちの顔もいい。三部作を久しぶりに読み返したくなった。

 何となく興が乗って、夜ご飯のあと、買ってあったピエール・ルメートルのミステリ『その女アレックス』も読んでしまった。賞をいくつか取っているようで、この辺りの本屋でも平積みにしてある、珍しい翻訳本だ(邦題はもうちょっと格好よくならなかったのかなあという気もするけれど)。
 そして、これがまたとんでもない徹夜本である。
 描写が結構細かいんだけど、それでリズムが遅くなるわけではなく、翻訳もほどほどライトで読みやすい。その「アレックス」という謎の女にかかわる事件を追う刑事グループの班長と「アレックス」の視点が(三人称で)交代にきてぽんぽん新しいことが分かっていく。というか謎の中心であるアレックスの心理描写をはじめっからガンガン入れてくるのに、この子のことは最後の最後まで新情報が目白押しで分からないままなのだ。
 うっかり三分の二くらい読んだところで深夜二時を回って体力がつきたので、目を閉じたのだけど、頭は完全に続きを考えて無限ループに入ってしまい、久々にあの自分が布団にいることを理解しているのだけど全身の感覚が全くなくって、どんな姿勢をしているのか、体重がどうなっているのかわからず、ただその「ない」感覚と同時並行して次は誰を?なぜ彼らを?と脳みそが高速回転している、ほとんど金縛りみたいな状態になった。
 結局あきらめて目をあけたら四時で、五時半までかかって終わりまで読んだ。日曜が休日だったのは幸いだ。
 まあ、面白かった。けど、『ミレニアム』シリーズの方が好みかな。敵のスケールはだいぶん違うわけだが、なんか味方の多彩さにおいて。