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2017/02/27

オスカーの日に映画の夢をみたので

 ヌーディスト・シネマ、というものが、世の中にあるのか否か知らないけれど、どうしても「ラ・ラ・ランド」が観たくて備三地方のさる山のふもとにある映画館にいったらそこがまさにヌーディスト・シネマだった、という夢を見た。

 ちなみにそこに出てきた映画館は現実にはたぶん存在しない。一見しただけなのでやや不確かだけどおそらく知り合いも一人も出てきていなかったので、まずはご安心ください。
 曰く、一切の偏見なく作品世界に没頭するためには一糸も纏わないのが一番なのだという。おそらくこんな考え方が出てきた背景としては、少し前に、これは現実で「ホラー映画は全裸で観るとめっちゃ怖い」という、本当か嘘か知らない、確かめる気もべつにないし心底どうでもいいけどとりあえず院生に教えたら馬鹿受けした豆知識をみたことがあるのだと思う。夢の中の私はというと、いたって冷静にその場所のルールを受け入れ、それだけでなく至極もっともだと考えて、鑑賞の準備の出来た人々に加わろうとする。のだが、手持ちが足りなくてクレジットカードで鑑賞料金を支払おうとしたところから(つまり財布に1800円入っていなかったということになっていて、それはそれで大人にあるまじき事態なのだが、こちらはたぶん私が現実に今日の夕方着払いの荷物を受け取る予定なのだが手元が不如意なことが響いているような気がする。下ろして帰らないと…)、何故か映画館スタッフさんの挙動が不審になり、かなりしどろもどろに「い、今英語わかる人呼んできますんで!」といって去ってしまう。「わたし日本語しゃべってますがな」と思いながら待っていると、頗る流暢なアメリカ英語を話す役人がやってきて別室に通され、ここをどうやって知ったのかとか、何をしに来たのかとか、一番最近買った本五冊の内容を要約せよとか(これは積読を増やしすぎている罪悪感か?)宗教的アイデンティティとか投票傾向とか思想信条とか両親の生年月日と眼の色とか、超スピードでとにかく根堀り葉堀り訊かれるので、映画はじまっちゃうし、と思いながら脱ぎ始める辺りでさわやかに眼が覚めた。

 まあ、夢の中で裸になったり裸の知らない人に会うのは、新しい世界が広がるとか、力を発揮したいとかいう暗示であることが多いようで悪くはないらしいわね。まあ、夢占いとか普段気にしませんけど念のため。そういえば夢の話と政治の話は控えめにしようと思っていたのだけどうっかり書いてしまった。

2017/02/19

観たもの備忘録ーリンカン、わからないまま最善手を打つこと。

 『リンカーン』(スピルバーグ監督、ダニエル・デイ=ルイス主演、2012)、今まで観ていなかったのも不思議だが、録画していたのを観た。今の時代になって観てよかったかもしれない、政治の難しさや不純さと、(「にもかかわらず」というか「だからこそ」というか)その世界を変える力に、圧倒されるような救われるようなストーリーだった。
 奴隷解放宣言を受けた合衆国憲法の改正を成立させることがメイン・トピックなので、表舞台は大統領のいない議会だし、南北戦争の戦闘や有名な演説などは前景化していない。それもあって、派手な場面ではなく、一見そうと見えないようなところで、大きな心境の変化や重大な決定が起こり、コマが動く。
 ちょうど思い出したのが、読み途中だった鷲田清一『素手のふるまい』(朝日新聞出版、2016年)三章、志賀理江子の北釜での活動から出てきた「「わからなさ」をいただく」という表現を膨らませてある部分。これが、リンカンが不確実な要素だらけの中で、どちらが上と優先順位を付けられないくらい重要な事案ばかりの拮抗するなかで、自分の考えをまるまま理解し受け入れる人が誰一人いない壮絶な孤独のなかでギリギリのところで選択を下していく(それは歴史に残る偉業になったけどその所為で大分人が死んだことになっている)様子とつながった。長いし、すごく関係あるって感じでもないけど引用しておく(借り物の本だし)。
いや、そもそも人の智慧というのは、わからないものに直面したときに、答えがないまま、つまりはわからないままに、それにどう正確に処するかにあると言ってよい。イデオロギーとはだれも正面だっては反対できない思想のことだと、最初に行ったのは柄谷行人だと記憶するが、いまわたしたちの社会に流通している「エコ」「多様性」「安心・安全」「コミュニティ」「コミュニケーション」「イノヴェーション」などの観念は、それを仔細に吟味すればさまざまの不整合や撞着に突き当たるはずなのに、さらなる吟味を抑圧し、それに対して正面からは異を唱えさせなくする思考の政治力学が根深く働いている。わたしたちの思考を催眠状態に置くような力学であるーー「アート」もまたこの力学に巻き込まれており、それがイデオロギーというべきこうした範疇の諸観念と安易に接合することに抗って、わたしはこの原稿を書いているーー。そして、思考を停止させたまま、含みもなければ曲折もない、そんな単純な物言いが、あるいは不満や不安の強度を単純に高めるだけの粗雑な物言いが、言論の表面を厚く覆っている。屈折もなければ否定による媒介もないそうした思考には、他の人びとの思考の痙攣との過剰な同調はあっても、それをわからないままに抱え込んでいられる奥行きはない。あるいは、すぐには解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされ続ける耐性というか、ため(傍点)がない。
しかし、個人の人生であれ国家の運営であれ、そこでほんとうに重要なことは、すぐにはわからないけれども大事なことを見さだめ、それに、わからないまま正確に対処するということである。   鷲田清一『素手のふるまい -アートがさぐる未知の社会性ー』(朝日新聞出版、2016年)104-105頁

 一つ一つの場面の構図や色調は本当に美しくて絵のようで、ダニエル・デイ=ルイスは無論のこと(もう一つ好きだったのは、あれだけ優れた演説をする人だが、それが頭のなかにある膨大な思考や文学から血肉としている言葉や他の学問やらの蓄積からするとほんの一部だということがはっきりわかるように造形されていたこと。口に出されなかった膨大な言葉があって、そこから間一髪の選択で表に出てきた言葉だからこそ力を持つ)、その周りの老獪な政治家や軍人も見ごたえがあった。ちょっとひょろっとした感じの息子がジョゼフ・ゴードン=レヴィットだからなのか矢鱈とチャーミングだった。

2017/02/01

歩くより速い

 車を運転するというのは怖いことだ。ぼんやり鉄の塊を制御しそこなった時の被害が、個人の「ぼんやり」の結果にしてはあまりに甚大なものになりうる、というのはもちろんだが、そんな大事にならなくても、運転というものには、随所に個人の性質が強調されて出ると思う。
 一番思うのは、救急車と遭遇した時で、交差点で譲れず出ちゃったりしている人がいると、もう、あれは恥ずかしい。日頃からの余裕のなさや、そんなに変わらないのにあわよくば先に行きたがる卑しさが、緊急時の振る舞いのなかに全部透けて見える感じがして、他人事ながらいたたまれない気持ちになる。そんなのはたまらないし幸いに滅多とないにせよ、普段でも交差点に差し掛かるときに黄色に変わるとアクセルを踏む人は結構いる。そして私はそれ(黄色突破というより加速)があまり好きでなくて、ああ、みなければよかったと思う。思いやりのなさやこずるさを一片垣間見た気分になるからだろう。
 ともかく、普段からフェアプレーをしてないと、もしもの時だけってわけにはいかないものである。そこで、ともかく視野を広く持つように心がけておく。さらに、狭い路地や立体駐車場での離合、信号ないとこでの対向車線の右折車、信号なしの横断歩道なんかで、うまく譲れたら「決まった!さすが私!スマート!大人!」といい気分になってみる。きわめ付けが表題の呪文で、毎度ブレーキを踏んでエンジンをかけるときには、お祈りのように「歩くより速い、歩くより速い」、だから、焦る理由なんてないのよ、と自分に言い聞かせておくのだ。

 (こういうとすごく慎重な人みたいだけど、実は軽く二度対物をやったことがある。ゴールドですが。あと、どちらかというとぐいぐい行ってしまう方らしいし、自覚症状もあって、二号線が片側二車線になる瞬間など結構ワクワクしてしまう。しかし、合理的に動くのと、せこく動くのは違うと思うので、自分の中に変なセコさが避けようもなくあったとしても、目に見える形にまでならないように、結構注意しているのである。)


 話は変わるが昨日、やっとのことで自転車を買った。
 中古で買って京都から尾道とずいぶん長く乗ってた自転車のスヴェン・ヨハンソン(オレンジ×水色なので北欧風の名前に)は、しばらく前から本格的に壊れてしまって、市街地は半年近く徒歩移動だったのだ。この街では自転車にこだわる人が多いので、却っていずれかの種類のチャリを買うことがなんらかの思想の表明になるような変なプレッシャーがあって買いにくかったんだけど、結局のところ余計なことを考えるより町中の移動に便利なように、と思って切り替え付のママチャリ風にした。カゴが少し籐編み風で、「はじまりのうた」でキーラ・ナイトレイが乗ってるやつみたい。褒めすぎか。名前はまだない。
 久々に乗ると、ママチャリというのは視界が広いけど力のかかり方に無駄が多く、極端なことをいうと人類が二足歩行を始めたときの気持ちが分かる気がする。腿の前っかわに筋肉がつくのは嫌なので、力具合を考えなければならない。てなわけで、自転車も、「歩くより速い」ところから再スタートだなーと思っているところ。