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2015/11/21

イラついた時の処方箋

 まったく、イラつくことの多い落ち着かない週だった。
 夏の夜明け前の瀬戸内海のように穏やかな私が、何をモツ煮込みじみた状況に陥っているのか?というと、別段、周りで起こっているのは普段と同じ日常でしかない。

 まあ、はっきりいって、終盤を迎えつつある困難な仕事がひたすら困難を極めているために余裕がなさすぎる、というのが一番の原因っちゃ原因なんですが。

 でも、何となく、世界を覆う(うっひゃあ!)よからぬ怒りの衝動みたいなのに、感染しちゃってる感はある。各地で人が死んでいることが意識されすぎるとき、しんどい政治的判断がいくつも火花を散らせている時。声をあげることにも沈黙していることにも、慎重さと自分の行動への責任が要求され、そうでない選択をすることに対する非難がにじみ出てしまうような気がするとき、要は、普通に生きて世界に関わるのにいちいち最大限の注意が必要な、ぴりぴりした空気は、内面も下手に過敏にしてしまう。

 それなりに正攻法で打ってでちゃってから気付いてまた自己嫌悪に陥るのだけど、怒りに捕らわれたときには、ある程度分析した後は、原因に直接突っかかっていくよりは、解決するためにもいったん目を逸らしたほうがよかったりするんよね。

 森見登美彦『太陽の塔』を取り出してみましょう。
 書き出しが最高。

何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。
終わりがまた最高だ。

何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
そして、まあ、おそらく私も間違っている。
『夜は短し歩けよ乙女』とか『四畳半…』など、後の作品のほうが、純粋に読んでる分には楽しいのだけど(そうだ、時間が出来たら『有頂天家族』の二部を読まねば!)、惚れ惚れするほど阿呆らしい青春のドツボにいる自分をいまいちきちんと突き放しきれていない第一作に、よりすがすがしいカタルシスをおぼえるのだ。

2015/11/14

パリに

 とんでもなく忙しくて、何であれ外界のことに関心を持っているような暇もないくらいなのだけど、今日はパリの市内複数の場所で起きたテロのことばかり考えてしまうし、きっとしばらく以上の間そうなってしまうだろうと思う。
 朝、Facebookを見ていたら、友人が「私は無事です」と次々に書き込んでいて、何事かとニュースサイトをいくつか確認して、でもしばらくは情報が錯綜していてよくわからず、パリでとんでもないことが起きたらしいということが分かってきただけだった。
 徐々に視野が開けてきて(今になってもはっきりしない事が多いが)、早速各国のニュースを提示しながらTwitterで情報を発信したり意見を述べたりする知り合いや、半分くらい知り合いや、あったことはないけれど知っているような気分のする人々や、全然知らない人々を眺めながら、言葉を使う仕事をしている端くれなのに、こういうときに言葉を発することが怖い、適切なことを発信できる自信がないというのは情けないことなのかもなあ、などと頭の片隅で考えた。一時期ほど多くはないけれどちょこちょこいる、パリの知り合いの無事のメッセージに慰められていた。
 人が死ぬのはどこでもどんな理由でもこたえるものではあるのだが、今回のは、なんだかんだ、今いるところと、実家のある場所と、(場所には思い入れがないが大好きな人の密度ゆえに不本意ながら重要な)東京についで、学生時代に長く過ごした京都と同じくらいには個人的に関わりがあって大事な場所である。お気に入りの自転車で19世紀建築めぐり(つまりパリ全体がそうみたいな感じなんだけど)やお散歩をしていたような場所で、というのが信じられない。遠く離れて安全な場所でミッション目白押しでも、頭がぞわぞわと落ち着きなくなってしまうのも当然の話だ。へたくそでもピアノが弾ける(能力ではなく環境面で)というのはこういうときに有難くて、手に覚えた曲をいくつかとてもゆっくりと弾いてみたりする。

 ニューヨークの同時多発テロと同じくらいの大事件だ、という人もいる。そうやって流れていく文字を目で追いながら、あの時、翌日に無責任に色々としゃべくっていた無邪気な高校生たちであった自分らをおぼろげに思い出して懐かしくなったりする。
 それなりの年月を経た今、私は世界が結構あっさり変わってしまう事を、生々しく知っている。
 飛行機に乗るたびに煩雑になる検査には慣れっこになっているし、(とは言ってもヒースローは格別、観光シーズンの新千歳空港で歴戦練磨の私も辟易した)、8年くらい前に、語学学校で会った素敵なマダムに「いつでもいらっしゃいね~」と言われていたエジプトは、随分前から不要不急の渡航はやめるべき地域になったままだ。5年くらい前に旅行の写真を見せてもらっていつか行きたいと思っていたシリアは、しばらくどう頑張っても行けそうにない。壊されて二度と見ることのかなわない遺跡もある。
 何かおさまりのよい言葉でしめるとよいのだろうけれど、今はそこにいる人々のこれからの無事を願いつつ、怯えている。それから、死んでしまった人々や私の知っている街から少し変わってしまっただろうパリを悲しんでいるし、出来るだけ悲しみや憎しみをこれ以上に増やさない為にはどうしたらいいのかと考えている、というか、困っている。

2015/11/09

十月弁当(一部)

 新米の季節になると、自分の家で炊いたご飯があまりにもおいしいもので、とてもコンビニおにぎりなど買う気がなくなってしまう。
 それで、大変な時期を乗り切るためにもお弁当をいそいそと作ることになる。昼に弁当を持参しておけば、帰れなくて夜が学食とかになってもやや罪悪感も薄れるというものです。
 といって、見てのとおり、すごいものを作るわけではまったくなくって、夜にちゃっちゃかできる簡単な炒め物ばっかり。しかもしばらくゆかりご飯にはまってたらしくご飯が同じような色合いです。
 にんじんだらけのは最近のお気に入りで、一本のにんじんを細く切ってレンジで2分、その後オリーヴオイルと塩とバルサミコ酢をちょっとづつかけて和え、朝まで冷蔵庫に入れておくというもの。あったらレーズンなんか混ぜるとおいしそう。
 きんぴらごぼうは締め切りハイで頭やられてノリノリで作ったらめっちゃ辛かった。