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2018/06/11

苗字不要論、というか、苗字適当論など

 近頃、よく思い出すのが今は昔、自動車学校に通い始めて程なくして、京都北山通の交差点を右折するというミッションに四苦八苦しながら、何かがおかしい、と頭を捻っていたときのこと。
 自動車の運転なんて別に選ばれし者の秘儀奥義の類ではない。ふつーの人がふつーにやってることだ(このミッションはオートマ車で遂行されていたのだから尚のこと)。だったら何故こんなに難しいのか。
 もともと私は、運動神経のつなぎ方の関係か、新しいことを飲み込めるまでに上手く乗っかれないと人よりだいぶん時間がかかることがある。そして後から考えると、当時三度ほど続けてあてがわれた教官は、レベル付けされていない細かい指示を、タイミング遅めに出す傾向のある人だったので、相性が悪かったのだと思う。幸い別の先生のお蔭で路上でまともに判断が出来るようになったけれど。ちなみにそのころはバイト先でもその手の上司に当たっていて(*)、必要以上に無能感に苛まれていたけど、もう少し全体の流れを説明してもらえたら全然違ったはずだ。

 今さら15年前の恨み言が蘇るのは他でもない、何かがおかしいのだ。

 名前が変わる、というとまるでオオゴトみたいだけど、ご安心を、ここはアースシー(「ゲド戦記」のね)じゃないし、私の本質に直結する「真の名」とかじゃなくて、書類に載ってる社会的法的な記号みたいなのがちょろっと変わるだけのはずである。しかも、一発奮起した特別な個人だけがあらゆる制裁を覚悟で変更を願い出るッ!とかでなくて、市民やってたら時たまあるたぐいのステータス変更に伴って、希望しようがしまいがどっちかは変えなければならないというから、それでは仰る通りに、というわけ。

 ・・・なのに、この面倒くささはなんなんだろう?

 本人確認書類としての免許証を直すにはまずはお役所で住民票である。お役所・郵便局・銀行の類は平日に行って並ばなければならない(ていうかこれらに別々に足労するのもなかなか事。そういえばマイナンバーはどうしたのかしら、あんな頑張って紐づけてるのに、何故一瞬で全部変更されないの??)。これら軒並み、その場で済めばいいけれど一週間後に届くとかいう書類が多いし、一週間後に書留で来たものは在宅にて受け取るか受け取りなおすか取りに行くかしなければならない。そういうのに限ってバラバラと届くし、下手したら、変更のための資料の請求なんてのに一週間かかることも・・・。一方、職場は職場で、いくつも同じような書類に自筆で書き込んで判子を押さなければならないし、保険証に至っては二週間取り上げられたままだという。
 まあ、昔の教習所とバイトの例は、主に人間の相性や要領に原因があったわけだけど、こっちはみなさん感じが良くて、このトチ狂ったシステム上をお仕事の合間を縫って書類とハンコで渡り歩く上では一瞬の清涼剤のよう、なのですけど。
 いやいやいや、でもね!
 お勤めしてる人が、半日お休みして手続きしなければいけないとして、積もり積もったらどれだけの経済的な損失か・・・。しかも、上に書いたように、これは半日では終わらないのだ。私は幸い日によってはちょこちょこ自由に動けるけれど、それでも時給換算で大分割り引いても一万二万くらい頂きたいところです。
 これが、留学のための準備とかなら、仕方が無い。わかる。でも、ふつーの市民が決められた風に動くために、何故こんな罰ゲームみたいな一連のサイクルをやる必要があるんだろう??これ、みんなやっているって、ちょっと信じられない。

 ちなみに私、特段に夫婦別姓論者というわけでもないのですけど、同姓を強要する(・・・というかこの「強要する」というのが嫌だ、あらゆることについて。なので、選択できるという方法があるなら迷わずそちらを採る)ならするで、こんな面倒で割に合わない制度設計になっているとはまさか思いもしなかったので、軽くびっくらこいている。

 それから、特段に別姓論者でもない、というのは、「家族の繋がり★キラキラ」とかの方ではなくて、前に田中芳樹先生が書いてらした、「夫の姓を名乗らずに父の姓を名乗り続けたいというのが別に新しいこととは思わない」というのに近い。苗字そのものが、別に個人識別以上の意味合いを持たなくていいと思う。親と子の関係性や、諸々の経験や財産の授受、家族間の感情など、それぞれ違っていて、家の名前で縛っておいたら安心ということもあるまい。
 そもそも、ニンゲンをわざわざ戸籍単位で登録するのが合理的じゃないと思うけれど、そうするにしても、夫婦で新しく籍を入れるのだから苗字も自由に、そして楽に、したらいいのでは。所詮は記号だ。伝統といっても長くたって千年ちょいくらいのものであって(たいていの一般ピープルの苗字はもっとずっと短いでしょうし)、そんなんより、いま生きている短い間が幸せで、その限られた間に今とこれからの人類のために充実した仕事が出来るほうが重要じゃないだろか。
 そんなことをむしゃむしゃと考えていたら、『暮らしの手帖』でブレイディみかこさんが紹介していたのがイギリスの例。夫婦別姓がかなり浸透して、子供は両親の姓を二つつなげて姓にすると。長くなったり面倒になったら、二つの姓から部分をもらって姓を作成したり、あるいは全く新しい姓を作ったりしてもいいんですって。世界は変わるし、言葉も変わるのが当然。こんな風に変える考え方もありなんだ、と、気持ちだけでも少し自由になった。


(*)その店長はそこにいた間、多分私だけでなく誰に対しても効果的なリーダーシップを発揮することなく、やがて去って行ったのでちょっと気の毒な話でもある。