Pages

2020/04/15

「今がいちばん可愛いとき」の真意 -育児雑感(4)-

 重い話のあとには軽めの話、苦いののあとには甘いのを(*)。
 

 四か月になると、手を握るのも反射ではなく、私の手の動きを封じようという意思をもったものだったりする。ただ甘えたくて服とか腕とかをつかんできたりもする。
 目に見えるものと、触れて確かめるものが、次第に一致してきた。この世界に焦点を合わせて、自分の力がおよぶ範囲を拡げていく。思い通りに動けることに嬉しそうにしていると、こちらもうれしい。

 三か月を過ぎたころ、ある日、授乳中に動きが止まったのでふとみると、こちらを見上げてなんともいえない幸せそうな顔で、ゆっくり、にこりとした。いつも飲んでいるおいしいものは、私があげてるんだって気づいた瞬間だったのだと思う。あれは、なにか感動的だった。しばらくの間、この感動を反芻しているかのように、たびたび授乳中にこちらを見上げて笑顔を見せていた。


 足の指は生まれたときからとても器用だ。2か月半でボールの玩具を渡してみたときには、手よりも足で挟んで動かしていた。寝転がっている時には、両の手を合わせることができるようになるよりもずっと前から、足の裏を合わせたり、片方の足の指でもう片方の足首を掴んでみたり。まだ、「立つ」「歩く」機能に特化されていない足は、とても自由でのびのびしている。

 「今がいちばん可愛いときだね」と言われると、前は、「これから大変になるのかしら」とか「それどころじゃなくなるのかな」と思ったりしたものだが、どうも、思い違いをしていたようだ。「今がいちばん可愛い」ーーこの言葉から単純に想像すると、可愛さのグラフは、まるで山形をしているように考えてしまうが、そうではない。

 先週「今がいちばん可愛い」と思ったのに、今日また「今、最高に可愛い」と思っているし、昨日もそんなことを思っていた気がする。
 思っているだけでなく、姿を前にすると、口に出てしまう。
 しかも、大真面目なのだから始末に負えない。
 どうやら、こと子供に関する限り「今がいちばん可愛い」は、その「今」において、私が存在するのと同時に存在している時間の一瞬一瞬において、超主観的で絶対的な真実であるらしいのだ。

 (*) ーーこれこそが、DNAに刻まれた「もう出産なんて御免だ」を打ち消しかねない、種の存続のためのキケンな罠だとも思うわけですが。

No comments:

Post a Comment