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2020/03/23

昔はものを思はざりけり ー育児雑感(1)ー

 色々あって、ものすごく長く間があいてしまった。
 今は、週末に生後百日を迎えた息子の寝ている隙を狙って、このページを開いてみようとしている。
 とはいっても、ここに何か書くような余裕はなさそうなのだけど。里帰り先から移動し、初めて住む東京の家で少しは落ち着いたかな、というころから、研究時間を捻出してみようと試みるものの、見事なまでに意図したとおりにいかないのだ。例えば、先週のある日は、職場の方とスカイプで打ち合わせ予定があり、少し緊張していたが、その間中よく寝ていてくれたうえに、そのあとも少しまとまった時間がとれた気がした。そこで調子にのって、以後仕事時間のログを取ってみることにしたのだが、次の日は合計で一時間も机に座っていられなかった。なんということでしょ。
 それでも、ルーティンに追われているうちに「月」レベルの時間が飛ぶように過ぎていくのが勿体なくてなにかに引っ掛けておきたくなる。また、産後は脳が萎縮するといわれるが、ふと開いた本の中の熟語の繊細な意味の差異が、自分に無関係なもののように感じられたことに、かなり危機感を覚えたりもして、やっぱり何か書いていなければならないと思うに至る。だから、つるつる言葉が出てこないところからのリハビリみたいなものだ。しかも、脳に行くはずの血液の大半を胸部付近に取られながら。

 表題は、百人一首から。
 逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり

 漫画『ちはやふる』では、大江奏ちゃんのお母さんが、子供がお腹にいることがわかったときに、こういう気持ちになったわ、といっていた。一度知ってしまうと、その前にはもう戻れない、そういう気持ちがあるのだと。
 妊娠出産から、現在進行形の子育てまで、思えば「一度そうなると前にはもう戻れない」経験の連続だったように思う。しかも、それは「ものを思う」なんて風雅なものではなく、まさに「経験」であり、考え方が変わるという言い方では生ぬるく、身体から人間の仕組みが変わるので考え方も感じ方も変わらざるを得ない、という感じだ。この過程で、私はそれまでいかに、頭に身体を従わせるというシステムで動いていたのかを実感した。とにかく思い通りにはならない、というのに尽きる。

 何もかも今までの仕事や生活とは勝手が違う。
 けどそこで起こるのが、こどもを大きくする、というある意味、人間にとっての本質的な営為だというのは、とても面白いと思う。
 むしろ、仕事にあわせて頭でデザインしてスケジュールを立てたものに身体を従わせる仕方で行ってきた所謂社会生活のほうが、ちょっと例外的に楽な状態だったみたいな。
 そして、必ずしも経験しなければわからないものではもちろんない(究極的には経験しないと理解できないものはないと思う)だろうけれど、私は経験しないとここまでわかるのは難しかっただろうなあと思う変化だったので、ああ、我ながら持って回った言い方ではあるけれど、その機会が得られたことを幸運に思う。