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2015/07/19

そうめん~主題とその変奏~デザート付

 今日はさすがに暑すぎて、休日としてはマッハで学校に避難して研究にいそしんでいるが(今は食休み中)、昨日はまだ凌げるくらいだったので、台風のために持ち帰っていた資料とそのまま家で過ごしていた。
 昼はそうめん。
 安いし、すぐに茹で上がるから火をつける時間が最小限で済み、食べやすいので、1人暮らしの夏の昼はそうめんが大活躍です(大家族だったらゆでるだけで重労働だろうが)。
 めんつゆにつけて食べるだけでもおいしいし、玉ねぎのすりおろしとか入れてもおいしい。ここしばらくのお気に入りは、薄めに溶いてかけつゆにしてしまって、その上に野菜のおかずをどんっというもの。お浸し、胡麻和え、ナムルの類は間違いがないし、茄子とか小松菜とかを甘辛く炒め煮にした奴だったり、ラタトゥイユ風のものだったり、バジルとトマトのマリネを乗っけたこともある。要は残りおかずを、さっぱりしたものならそのまま、肉が入ってたり油っこかったらちょっと温めてもよくて、なんでもアリ、anything goesでございます。昨日などは、デラックスにも飽きてきたので、初心に戻ってつけだれで、めんつゆに辛みネギ油を入れた。青ネギを荒い微塵にしてごま油とコチュジャンと一緒に混ぜる。お好きだったらお酢も少し。野菜の素揚げとかざく切りトマトも合いそう。今後の課題としては、ナンプラーを巧く使えるようになりたいと思っている。前に居酒屋のようなところでトムヤンクン焼きそばというものを食べて大層おいしかったので、あんな感じのものをそうめんを使って一瞬で作れたら夏も結構悪くないのではないか。
 それとは別に、実家から救援物資として届いたメロンを昨日(!いまだ!)と思って冷蔵庫に入れて、今朝食べたら、どうやら完璧なタイミングだったようで、あまりに官能的に美味しくてすっかり幸せな気分になったところ。なんでも、一番おいしい時に一番おいしいところを一番おいしく食べたいという、誰が相手というわけではないが確実にこれもひとつの戦いを生きていて、だからメロンなんていう難しくて取り返しのつかない果物のおいしいところを捕まえられたときには、してやったり、と頬がゆるむってもんである。

2015/07/17

嵐の只中に ―私たちはもっとわがままにならなければ―

 高音で電線を鳴らしながら風が吹いている。

 小さいころの私は、自分でもはっきりと覚えているくらいに大きな音が苦手だった。暴風や雷の時、工事車両や除雪車がゆっくりと家の前で作業をしているときなど、感覚的な恐怖に、泣いたりとかもしたんじゃないだろうか。それで、母の発案だろうか、そんな時には我々姉妹はジグソーパズルで遊ぶことになっていた。外の世界で起こっていることは何一つこの小さな家の中の平和を乱すことはないのだから、耳を澄ませなければ、観なければ大丈夫。気を紛らわせるには、パズルは最適だった。
 大きな音に対する感覚的な恐怖を克服したのは、これもはっきりと覚えているのだけれど、小学三年の冬に吹奏楽を始めた時だ。トロンボーンのすぐ後ろはティンパニやシンバルで、轟音が腹に来る。反射的に身を縮め耳をふさぎそうになるところを、少しずつ抵抗を解いて、その音を体に浸した。寒い日に外に出るときに少しずつ呼吸を合わせて冷たさを全身に感じながら体を慣らす要領で。その合奏の間に腹に響く轟音は心地の良いものになった。
 自分が大きな音を発することへの抵抗はその後も続く。中庸の美意識、というとそれなりに素敵だが単なる怖がりなのか、声を挙げたり音をだしたり食べたり遊んだりしゃべったり噛みついたり、といったいちいちを、思いっきりやるところに行く手前で躊躇して手加減しまう。何度も、その時々に出会った人や物事を通して、思いっきり出していいんだよ、ということが腑に落ちて、リミッターを外せる、ということがあって、その度にすごい解放感を味わってきた。時間が経つと忘れてしまうので、たびたび自分でも、外していいよ、と言ってやらなければならない。

 実は授業準備も論文書きもしなければならないけれど、台風の夜にはあんまりにあらゆる方向が嵐なので、こんなことを思い出してみたりしていた。

 気が付いたら大きくも小さくもすっかり乱世である。どこでも、責任と権力を持っている人や組織が、自分の周りのごく狭い利害ばかり考えて身勝手な決断を下すのがなんでか許容されていて(それに飽き足らずより大きな力を求めたりするが、まともに使えやすまい)、その反面、下っ端の我々や市井の人たちが(なんでか)(どこにあるのかしらない)「全体」や「集団」の利益を尊重して行動することを強要される。私たちはもっとわがままにならなければ。

 歴史やファンタジーで一番わくわくするのは、乱世を乱世と、敵を敵と認識して、今まで見えなかったり目をそらしていたその敵に立ち向かう場面だ。その先には、決裂や停滞もあるけど、自分や仲間の成長なんかもあったりして、何より、身体を縮めないで状況を肌で感じながら、力をフル稼働させることそれ自体が愉快だ。自分の考えで、状況に立ち向かえることの自由。

 そんなんで、ここ何日か各地で行われている運動の様子を写真などで見てると、近くにいたら加わってみたかった。それに関連して…。

 【再掲】「パリのデモから考える」
 國分功一郎さんという方のブログの記事で、パリのデモが、いかにだらだらと秩序なくごみをまき散らしながら進んで行くかが楽しげに書いてあるのですけど、ちょっと引用。
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「デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しようとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。
 パリのデモでそれぞれの人間がそんなことを思っているということではない。多くの人はなんとなく集まっているだけである。だが、彼らが集まってそこを行進しているという事実そのものが、そういうメッセージを発せずにはおかないのだ。」
・・・・
で、政府は、デモの権利を認めることでそれを無理やり体制の中に、秩序の下に組み入れるわけだが、デモンストレーション、示威行為というのは、その性質としては大人しく収まっているようなものではないわけ。きちんと問題を理解した人が、ゴミなんか拾っちゃって整然とコールしながら歩いたりなんかしなくていい。群衆が目に見えて出現することが一つの力なのだから。で、どうこれを使うか。という話。正直全部きっちり理解できたか怪しい部分もあるけど大変に面白かった。

 ついでにもう一つ、最近ちょくちょく訪れている正体は知らない男性のブログ記事である。
「ギリシャ経済危機を見て考えたこと」ーガメ・オベールの日本語練習帳
 これは、冴えてセンチメンタルな自由についての話。引用。
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「人間の自由に価値があるのは、その「自由」が共同体の価値を脅かすときに限られる。
社会の生存が脅威にさらされないような自由は実はただの思想的な自由にしかすぎなくて、個人の「わがまま」と共同体の利益が相反するときにのみ「自由」は真の価値、本来の性質、言葉の真実を個々の人間に向かって問いかけはじめる。」
・・・・
 あるいは、この方が別の場所で使っていた「魂に染みついた自由」(ちょっとあやふや)という言葉。
 これが多分、たまに私を使いにくく思う方がいたら「だから外国かぶれは…」と毒づきたくなるものの正体かもしれないし、フランスにかぶれるずっと前から、多分小学校のある担任や中学校のある担任の先生を苛立たせたものとも通じるのだろうと思ったりする。


 わがままに生きていきたいし、納得出来ないことをやりたくないので、「汝の意志の格率が、常に同時に、 普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」みたいなことも考える。
 コレって、みんなのことを考えておとなしくしていなさい、というのんとは違うよね。
 ただまあ、面倒になってそんなのぜーんぶ、糞喰らいあそばせ、な気分になることもままある。


 風に吹かれて支離滅裂に。


2015/07/14

「どなたがハイヒールを発明してくれたのか存じ上げませんが、女性は感謝の念に堪えません」

表題はマリリン・モンローの名言らしい。
 彼女の映画『お熱いのがお好き』が大好きで、マリリンの膝下スカートから除く美脚を、後ろに縫い目のある絹のストッキングとハイヒールがラッピングしている様子のセクシーさったらない。この中では主演の男子二人、ジョーとジェリーが女性ばかりの楽団に雇われるために女装してハイヒールに苦労するシーンが出てきたりします(そしてジェリーが階段をふらつきながら昇るその足首を億万長者に見初められる)。

 男性が1日ハイヒールを履いてみたらというトピックを見て、そこかしこの女性たちが、ハイヒール、化粧といった体力も財力も喰う「身だしなみ」を「失礼がないように」「マナー」として装備しなきゃいけない状況の不条理を訴える様子に、またまた疲れてしまった。
 人が無理を耐え忍んでいる様子を見るのはつらいし、そうしなければいけない状況があるという事実につかれる。中高の制服あたりから大多数の女子が不自由を当然のこととして育っちゃって、あきらめムードが余計に無力感をあおる。
 送り迎えのお車から席に座るまでの間、多くの場合支え(男子)付で歩くレッドカーペットの上でも、ヒール強要は変じゃないかっていう議論もちょっと前にあったくらいなのに(カンヌ映画祭ではハイヒールがマスト?)、仕事だったらなおさら邪魔なときの方が多いだろう。
 
 幅広甲高のおおきめの足が短い脚にくっついた私が、自分に合う靴を見つけるのは結構難しい。「アミはいつも靴を探している」と言われるくらい靴が悩みの種だ。しかも、タクシーからレッドカーペットの上を歩けばいいのではなく、どんなにお洒落だけするときにでも展覧会1つと常設展位歩けるか講義2つくらいは出来るようでなければそもそも出番がない。…と、それでもあきらめずに常に探しているので、靴について語るとなるとどんだけでも語れる気がするが、大事なことは、ハイヒールが大好きだけど、あれは嗜好品で、マナーとして暗黙裡に強制されるもんじゃないだろってことだ。

「ハイヒールを一足頂戴。それさえあれば、世界を征服できる」とはマドンナの言葉。
 普段の機動力を抑えるための纏足じゃない、満を持して天下を取るための武器であってほしい。てのはまあ、言いすぎかしらね。でも、誰にとっても。なんなら男子もたまに使ってみるといい。ほんの7cmでも、視点が上がるってかなり気持ちいいから。

2015/07/13

地盤上の心理的な戦い

 まだ暗いうちなのに、何か目を覚まさせようとする者が頭をもたげてきて、まだ早いよ、暑さで夜中に起きる時期じゃないよ、寝てようよ、と念じながら薄目を開けると、一拍置いて建具が静かに音を立て始める。
 それほどじゃないな。前回初めてこの家で地震に遭遇したときは、震度4に近い3でかなり長く、その間に勢いが強まるタイプで不安が掻き立てられた(慌てて南海トラフについて調べ始めた)が、今回はそれほどでもないのがすぐにわかった。本棚は廊下にあるから私の身はとりあえず安全。目をしっかり開けて、耳を澄ましているとやがて揺れが収まった。
 ipadで天気予報のページを開くと既に速報が出ている。震源という大分県が思いのほか近いのに驚く。機会がないとこちら側を中心に日本地図を見ることがないから、九州は十把一絡に南の島というイメージだが、瀬戸内海と伊予灘を囲むようにしている大分・愛媛・広島三県は実はお隣なのね。
 兎も角、まだ三時だから眠らなければならないと思って、汗をかいてしまったのでTシャツを替えて一時間だけ冷房をつける。と、視線の先に白い大きな直方体状の塊が浮いているのが見えた。
 …や、いやいやいやいや…。
 本棚のことしか考えていなかったけれど、夜中に大きな地震来たらもっとマズいもの、あるじゃん。丁度頭の上に設置されている、エアコン。
 さて、困った。これが万が一落ちてきたら、顔に直撃だ。この程度でどうにかなるような美貌じゃないけど、緊急時に鼻の骨が折れているとかは大変そうだな。頭を打って意識をなくしたら逃げ遅れるかもしれないし、脳震盪で記憶をなくすかもしれない。どう配置換えしたら少なくとも頭に振ってくるのを防ぐことが出来るかしらん、今日のところは枕を逆にした方がいいのかなあ、と、霧ケ峰(家にもともとついていた)をにらみつけて、しばし。
 しているうちにどうやら眠ってしまったようで、寝ている間に霧ケ峰が降り注ぐこともなく、今日も元気です。

2015/07/12

夏が来る

 梅雨あけと台風が重なってまだうじうじしているようだけど、この空気は、一瞬の日差しの強烈さは、夏が来ているに違いない。毎年思うけれど、祇園祭って素晴らしいタイミング。祭りが湿気を追い払うと言わんばかりに、律儀に15日前後から本格的に熱くなる。
 こちらの土地でもあらゆる植物のエネルギーが里山の一車線の道なんてあっという間に埋めてしまいかねないくらいの勢いで渦巻いている。アジサイの頃の甘い香りにかわって、むっとするような湿気と青臭い匂いが充ちている中、散歩している途中に両側には、一旦は征服した自然に抗い続けることをあきらめて、大人の背丈を簡単に越えてしまうような植物の繁茂する空き地になってしまった元・畑がちらほら見える。一応舗装されている山道の両側から草や蔓がこぼれ出ていて、その下に、本当に目を凝らさないと見えないような擬態でマムシが潜んでいたりする。頭の側を窮屈に折りたたんだその姿は、すぐに跳躍出来るようにバネを溜めているみたい。1mは跳ぶというんだから恐ろしい。
 軟弱な私は一時間も外にいて部屋に入ると、冷房の有難さに心底ほっとする。けれど、軟弱さも筋金入りだから、冷房にあたりすぎると今度は頭痛やら肩こりやらに悩まされることになる。毎年身体のむくみが気になるのもこの季節で、どうしたらパフォーマンスを保てるのか考えどころだ。