Pages

2016/03/06

キーファーのスモール・ライト効果

 シャトー・ムートン・ロートシルトというとシャガールやピカソがラベルを描いたことでも有名な一級品のボルドーワインだけれど(私でもわかるワインの一つである。なにしろ昔バイトしていたお店のトイレの前にラベルのポスターが張ってあったので。)、微妙に似た名前の、もっとずっと庶民的だけどそこそこ美味しいワインを飲みながらこれを書いている。お供はキイチゴとピスタチオのマカロン。箱買いしている各国のマダム・マドモワゼルに混ざって小さくなりながら「今夜のおやつに二つだけください」とピエール・エルメで買った。
 せっかくキッチンのある部屋に滞在しているのに、せかせか動き回っているうちにそんなにちゃんと料理もできずにパリ最終夜。昼間図書館で資料を漁り、時差の関係で急激に眠くなる夕方になると、地下から這い出して夜間拝観をハシゴしていた。

 今回は特別展が軒並み展示替えの時期になってしまったのだが、ポンピドゥーのアンゼルム・キーファーが観られたので後悔はない。現代の芸術におけるTitan、巨人という言葉が冠されているように、存命の芸術家の中でもあまりに有名で、私が何か言おうというまいとびくともしない存在ではあるが、でも、すごかった。ポンピドゥーの回顧展には毎度毎度学ぶことが多くて、いくら感謝しても足りないのだが(ミロも、ジャコメッティも、モンドリアンも、ムンクも、リキテンスタインも、あといくつか多分あるけど、ここで一通り知ることができた)、作品それ自体をまとめて、しかも画業の初期からきちんと辿ってみることでしかわからないことがあると思う。

 キーファーの作品群の前に立つと、自分が二回りくらい小さくなった気分になって、ほとんど打ちのめされてしまう。大きな筆触や絵具に混ざった砂やワラのような素材感も、独特の低い視点や消失点の操作も、描かれたテーマや、宙に書き込まれたような文字も、すべてよってかかって私の取るに足らなさを意識させにかかっているんじゃないかという気分になる。

 連合国の空爆によって壊滅されつつあるドイツに生まれて、その土地と人々に染みついて拭っても洗っても消えないナチスの所業のトラウマじみた記憶に取りつかれて、それでも歴史とか伝説とか、土地とか生命とかっていうがっつりでっかいものととっくみあった作品をこの人は作る。でも、その手つきは繊細なので、ブリュンヒルデとかカバラとかいう単語を聞いて「中二病か…」と苦笑しかけた顔をもとに戻すことになる。特に繊細さという点では、ガラスケースにしまわれたオブジェの立体作品が少し遊び心も感じられてよかった。展示の後半は、パウル・ツェラン、ボードレール、そしてスタール夫人と、文学を主題とした作品が並ぶ。あらゆる詩を詠むことが野蛮になったアウシュビッツ以後、強制収容所から帰って詩を書いてた(でも多分川に身を投げてしまった)パウル・ツェランが彼のインスピレーション源の一つとなっていることについては分厚い研究書も出ていて、少し深く調べてみたいと思った。(研究書と公式カタログ、少し前まで国立図書館でやっていた展覧会のカタログ、コレージュ・ド・フランスでの講義録などなど、魅力的な本がたくさんあって、伸ばした右手を左手で必死で制しながらかえってきた。すでにルーヴルの本屋やら古本屋で少なくない量を買ってしまったから、今すぐ必要ないものはオンラインで取り寄せること!)

2016/03/02

買い物に愛が炸裂する。

 どうやらこのたびはパスポートを忘れるようなこともなく、雨のパリ。
早速買い物したけど愛が溢れすぎてよくわからぬ組み合わせになってしまった。少し迷ってフェンネル(セロリとジャガイモの中間のような楽しい食感と爽やかな香りで大好物)をバターで炒めて、ミルクスープで煮たやつに、ラヴィオリ(パスタの餃子)も入れちゃって温かいご飯に。ロケットと生ハム、チーズは添えてサラダにしました。コンテチーズがセンチメートル単位で食べられる幸せよ。
ブランジュリーがたくさんあるのに何故パック売りのパンを??と非難されるかもしれませんが、なんだかなんだ食べたくなるのが右下の工業製品チックなパンケーキ。

2016/02/28

見ていても見えていないものを見るための色眼鏡

 豆腐でも食べるくらい日常的に「独立国家でもつくらんとだめか」とつぶやいている割に、未読だった坂口恭平『独立国家のつくりかた』を読んだ。恥ずかしながら今頃、しかも下北沢のヴィレッジヴァンガードなんていう、微妙に似合ってるから恥ずかしさ倍増な本屋で買ったものだ。

 最初から読み進めていく中で、一番強く感じたのは、自分と同じことを考えている人がいるのか、という驚きだった。そしてその考えを突き詰めると路上生活者に行きつくことにも驚く。

 私は無音への恐怖(都市にいると、その住人の大半はこの症状があるのではないかと思う、症名はついていないから意識されていないだけで)がない代わりに騒音から逃げ場がないことを恐れるように、何もないところや高いところは全く怖くない一方で、極端に狭くごちゃごちゃした場所が苦手だ。それで、初めての一人暮らしで京都に住んだときには、狭い部屋にも、人と車と自転車がすれ違うのもやっとな道にみっちりとせり出した家々にも、なかなかのショックを受けたものである。
 ただ、六畳のワンルームのあるアパートを出ると高野川があった。私は、下宿を決めた時からこの川を自分の庭とすることを決めた。実際にちょくちょく河原でランチをしたり、本を読んだり、大事なメールを打ったりしていた。快適な季節には蚊がいるので昼寝は出来なかったけれど。他にも、喫茶店を書斎とする財力はなかったので、大学図書館を書斎にし、部室と寺とバイト先の飲食店を修行のための道場とした。そうして、世間的には私が住んでいるのは六畳+キッチンとバストイレのアパートであっても、実質的に私の棲家は京都中に広がっていることになった。

 こういう見方を、坂口恭平は「レイヤー思考」という名で呼ぶ。フォトショップとかの「レイヤー」をいじったことのある人なら膝を打つと思うけれど、そうでない人には難しいかな?地図の上には法律上の所有者や、常識的なモノの名前が書いてあるとして、そこを全部覆ってしまう透明のフィルムをかぶせて、「違う見方」で見た所有者名や名前を書き込むのだ。鴨川河畔は「晴れてる時に美味しいパンを食べるカフェ」になり、「ごみ」と言われているものが「資材」になるかもしれない。この「レイヤー」が、「見ていても見えていないものを見るための色眼鏡」だ。

 そもそも物を所有して維持しようとするほど、色々な場所からさらにお金を課して自由を奪おうとするような力が働き、結果的に法律や世間やらの見方の内部に閉じ込められたままになる。たとい1~2年でも海外で暮らそうとすると、何の罰ゲームかと思うくらい手続きが面倒だし、今まで所有してきたものの処理にめちゃくちゃ困る。結果的に、別の「レイヤー」を得ることが出来て、なんでココ、こんなにお金かかっているのに持っていたんだろう?とか思って色々と手放す機会にはなるのだけど。テレビとかね。
 しばらくそんな無茶な移動もしないでいると、またモノが増えて、知らず知らずのうちに自分を縛っていることに気付く。例えば、車という物を持つと、ちょっと信じられないくらいお金がかかる。まあ、車があれば、私が深夜にちょっとふらっと遠出したくなったとして、ゆっくり休んだり家族とのんびりしていていいはずの人を誰一人巻き込むことなくふらっと出来るという意味ではこの上なく自由なので、その分のペナルティみたいなものだろうか。その点、自転車ならさらにペナルティが軽い(登録は必要だし、違法駐輪で撤去された時にうっかり確認を怠って盗難届を出したりすると京都府警が実家にまで電話をかけてくるが…)。ああ、まったく、人間が自由でいるって本当に難しい。多分それで、本来あるべき自由を取り戻すために、坂口は法律と向き合ってモバイルハウスを組立て、電力会社に、行政に紐づけされない、人間らしい生活をしようとしているのだろう。原発廃止の前に土地の私有の廃止、筋が通っている。

 無論、細部にはかなりたくさん留保があって、例えば私は段ボールハウスの住人にならないためには、多少の不自由(労働とか)を耐え忍ぶ覚悟があるわと思う。露地草庵で生きていかれるのはやせ我慢を洗練に昇華させてしまった京都人でなければ(青磁やギヤマンで醸し出せる清涼感には限界があるもの)やさしく温かい風が吹き果物のたわわに実る南国人だけだ。北海道生まれにとっては家は外界の天候や音や光から守ってくれる頑丈で気密性の高いシェルターであってほしい、だったり。

 本の後半の方は、坂口の仕事の進め方や仕事上の信念が至極ポジティヴに書かれていて、結局のところ、この人もまた「死なないためのアート」の実践者なんだろうと思った。「死なないためのアート」というのはこの文章→(自愛について(tanukinohirune))で書かれていることで、私は芸術に関わるということに関して今のところこれ以上に説得力のある理由を知らない(思わず当時フランスにいたのでフランス語に訳してみたりした)。いわゆる躁鬱を患っていて、でもひたすらに作品を見ることで強い自殺念慮と闘うという「公式」を持っている事がどれだけ強力なことか。

2016/01/17

韓国海苔巻の作り方を描く

 この前の投稿の変な寒さは、風邪ひき始めの寒気というやつだったようで、その日の夜から本格化して次の日の朝には37度、昼に授業を終えて病院に行くと38度を越えた。インフルエンザではないのに(検査したら陰性だった)熱を出すことも珍しいので、その日はおかゆを食べて風邪気分に浸りながら夕方から朝まで寝たおし、翌日も最低限のミッションだけこなして(といっても木曜日はフルタイム以上に予定が詰まっていたのだけど)帰ったら寝る、というので何とか下手に悪化させず、今週末にその断末魔を聴きながら例の任務をこなしたのでした。

話は全く変わって、もうすぐ節分なので韓国海苔巻の作り方を描いてみたのが上の図である。
 和風の田舎巻きや太巻きも大好きなご馳走だが、こちらは意外と手軽なのにかなり美味しい軽食なので、是非試してみてください。
 なお、レシピは韓国のお姉さまに昔教わったのを自分なりに適当にサボったり考えたり改良てきなアレしたもの。

◆飯! 
 胆はご飯の味付けで、水少な目で炊いた温かいご飯に、酢ではなく、塩とごま油、白ごまをよく混ぜる。(味はあまり濃くしすぎると喉が渇くかも)。

◆海苔!
 韓国海苔を使うべきかと思いきや、案外普通の海苔でも行ける。寿司用の上等なのよりも薄いもので十分。韓国のりなら、味付きでないタイプが望ましい。

◆具!
 具の中で欠かせないのは、沢庵(全然秘伝の味とかでない、スーパーで売っている甘いやつがいい)、卵焼き(私は甘いのが好きだから砂糖と塩ちょっと、醤油で作る)、魚肉ソーセージ(サラダ油かごま油で軽く炒める)。
 魚肉ソーセージが海苔&ご飯のタッグと組んで最強の脇役となることは、『ハチミツとクローバー』で全国に知られ『三月のライオン』でも確認された歴然たる真理だが、私がレシピを教わった韓国のお姉さんははるかに前から知っていたことだったのだ!
 この三つがあれば、後は好きなもので無限にヴァリエーションが作れ、この三つのどれかを入れ替えたりすることもできるが、まあ、安定して味が決まる。

 基本のレシピでは、他に軽く塩もみして水気を切った細切りきゅうり、細切りしてサラダ油かごま油で炒め、軽く塩味を付けたにんじん(お気づきの通り魚肉ソーセージと一緒に炒めてしまえばよい。もっと勘のよい方がお気付きの通り、これらは無論、卵焼きを焼いた後のフライパンをササッとキッチンペーパーで拭ってそれで焼けば手肌にも地球にも、限りある時間にも優しいのである)を一緒に巻く。これは、最低限の手間と予算によって彩りと歯触りにヴァリエーションを与える最適解だと思う。何しろ、以上の五品は、基本的に固形物なので、巻くときに順番の気遣いもいらない。
 気を付けなければいけないのは、これに慣れた頃に思い立って和風太巻きを作りはじめたら、きっとかんぴょうと干しシイタケの下ごしらえのためにタイムマシンを飛ばし、なおかつ最初の一巻きでピンクのそぼろが霞と消えるだろうことだけだ!
 
 ほかに竹輪やさつま揚げなどの練り物を炒めて加えたり、小松菜を薄口醤油でお浸しにしてきつく絞ったのを入れたり、あるいは肉そぼろとかのちょっと高級&手間暇かけたアレンジを加えることもできる。

◆巻く!
 海苔の2/3くらいにご飯を薄くのせ、具を並べて巻くのはふつうの巻物と一緒である。
 注意すべきは、しゃもじよりはむしろスプーンなどで、ご飯を容赦なく敷き詰めてよいということ。近頃はオイル美容なんて言葉もしばしば聞きますように、ごま油でコーティングされた飯粒は酢飯とは比較にならないほど強い。なので、ふんわりとか気を使って巻物を崩壊させるよりは、ぎゅっとやっちゃって大丈夫である。
 もう一つ、近代になって手が大きくなった淑女紳士諸君であれば、別に「巻きす」を使わなくてもいいと思う。その方が力技でまとめやすかったりする。
 ご飯がオイリーで湿気が少ない分、海苔はタダではくっつかないかもしれない。そういう時にはご飯粒を2個ほど、海苔の端っこで軽く潰して糊替わりにしちゃいましょう。食べちゃうから罰当たりじゃないよ。

◆切る!
 ラスボス対戦がココなのはどの海苔巻も同じ。サッと一振りすれば空気中の塵も真っ二つになるようなシャープな包丁を、けっして焦らずゆっくり急いでこまめに前後させて切断し、その都度濡らして固く絞った布巾で、(その都度というのは流石に面倒でも出来るだけ)こまめに拭く。
 最後は断面にゴマをふりかけ、この断面を上にして盛り付ける。醤油も何もなしに、いただきます。下は前に作ったもの。

2016/01/05

寒さと戦う~女の家

 今日が事実上の仕事はじめだったのだけど、仕事場が寒すぎて物凄いエネルギーを食われた一日だった。15時ごろになってようやく寒さのことを考えなくてもよいくらいに落ち着いたからよいものの、昨日の夕方に駅に降り立って生ぬるい風を浴びた時には「しめた!この地には冬は来なかったようだ!」とにんまりしたのもつかの間、家はどこもかしこも冷たく、研究室ではオーブンと逆の現象が起きているなんて、全く油断ならないことである。今のところは事務仕事もそんなにたまってなかったし、自分の仕事は年末年始もぼちぼちやってたので、本日一番胆力を使ったのは「部屋が暖まるのを待つこと」なんじゃないかと思うくらい。
 あ~肩こるったら!今日は粕汁じゃ、熱い風呂じゃ。道産子が寒さに弱いというと笑い話みたいに理解されるけれど、暖かいところでしか寛げないのは、夏に凍えるほど冷やさなければ不安なのに比べたらどんだけか合理的なことじゃないかと本気で思ったりするのだ。

 毎度、実家では何をするというものではない。
 買い物とか遊びに行くこともあるけど、メインはこれだ。持ち帰った仕事をして、分担している家事をして、おすすめされた本や新刊の増えた漫画を読んで、ストーブの前でめいをなでて、あとは果てなく近況や、創作活動や、読んだ本や、美味しいものの話をする。心行くまで昼寝して、一日に何度もお茶やコーヒーを淹れ、大体は茶菓もいただく。申し訳程度にピアノの練習もして、夜は美味しいお酒を飲んだりする。
 人に言うと「何が楽しいの」という顔をされることが多いので、試しに書き出してみたけど、改めてみてもこんな幸せはない。
 めい(ミニチュアダックス)を含めて、父以外は女ばかりなので、上橋菜穂子の「守り人」シリーズでサンガル王国の王家の賢い女たちが集う四阿(あずまや)とか、佐藤亜紀の『雲雀』にちらっと出てくる女たちの秘密基地みたいなところとか、そういうちょっと外と違う秩序が敷かれているような呪術チックな感じもしませぬか。まあ、我々の秩序はお茶とお菓子と「あったかのんびりおいしく」なので、極めて平和的なのですけれど。