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2015/08/20

CIAの浮気方式

 自分の日課だったり、考え方だったり、単純作業の進め方だったり。何気ない動作に名前を付けて定式化すると、忘れずにこなせたりうまくいったりしやすく、人に勧めるときにも便利だ。
 
 幾分以上に不謹慎かもしれないが、二人で食べ物を分配するときは「シベリア抑留方式」である。
 まだ子供だった時分、元抑留兵の体験談を話してくれた方がいて(つまり又聞きなのですが)、乏しい食べ物が収容者二人づつに配られる。その時に二人で分ける方法は、私たちが姉妹や友人同士でやるのとまったく同じで、一人が分けて、もう一人が先に取る、というものだった。これをもって「シベリア抑留方式」と呼ぶ。
 なお、本場ではスープなどの時は、スプーンで一杯づつ、順番に食べたという。お互いにずるしないように、飢えて落ち窪んだ目で相手が食べるのをじぃーっと見つめる。話を聞いたときには、こちらのイメージが強烈に喚起された。
 
 最近大活躍なのは「CIAの浮気方式」である。
 4年ほど前のニュースで、データのハッキングリスクに詳しいCIAの捜査官が浮気に気付かれないように採用した方法から命名した。その方法とは、共用のGmailアドレスを取得して、下書き保存した文書を用いてメッセージのやり取りをすること。これは、それまでわざわざ二重にバックアップを取りたい文書を「自分にメール」してた私には、目から鱗であった。無論、自分だけの仕事なら共有アドレスなんてものも必要ない。以来、どうしても不安なときには、dropboxとUSBに二重に保存した文書をさらに、「CIAの浮気方式でバックアップ」することにしている。
関係ないけどかき氷。尾道山手の光明寺会館にて、手作りのブドウシロップが殊の外美味しく、うれしい驚き。

2015/08/12

京都みやげ

 暑いのが悪いのか逃げ場なく論文やってるためか、お決まりな感じだけどお腹が弱ってきてるので、晩は敢えての温かいにゅうめん。生姜をきかせた鰹出汁でもやしと鶏もも、茹でて冷凍してた菜っ葉、卵と、どこまで~もやさしい食べ物ですが、最後に京都で買ってきた七味をふたふり。本当はスパイスもよくないのだろうけれど、京都の七味は辛みより山椒が効いてて味が鮮やかになります。
 京都といえば、水族館で思わず連れて帰ってきた水族館のアイドル、オオサンショウウオでございます。30過ぎてぬいぐるみもないと思う常識は一応装備しているつもりだけど、これには負けた。結構リアルにオオサンショウウオっぽく再現してあるから、まったくきれいな色ではないし、離れた目や手足が若干グロテスクなのがいい。写真よりは細くて、全長120cmくらい。我が家ではヘタレっぷりを評価して"たれちゃん"と呼んでおります。

2015/08/11

夏休みらしきもの。

 オープンキャンパスが終わって、盆前のこの一週間は学食も(イン)コンビニも休みだから、残っている者なんて私くらいだろう、と悲壮な面持ちで食糧を買い込んで山にこもってたら、意外にも結構な方々が残っていてかつ構ってくれて、悲劇のヒロインな心境に陥らずに私なんでもないわってクールな気分で仕事をすることが出来た。出来栄えがクールというわけにいかないのがつらいとこだけど、兎にも角にも有難い。しまいに学生サンが営業にやってきてうっかりオリジナル手ぬぐいを買ってしまう。手ぬぐいは割と好きなアイテムなのである。
 今日の昼はリトルマーメイドのラタトゥイユの入ったカルツォーネ(これは名作)とレモンパイ、夜は空腹すぎて何をやってるのかわからないうちににんじんとかピーマンとかソーセージとかがごろごろ入ったカレー風味の焼き飯に目玉焼きがどんっとのったなんちゃってカフェ飯(これでも褒めすぎ)みたいな感じになった。昔左京区の東一条のイタリア会館にまだサンシャインカフェがあった時に、ケイジャンライスとかドライカレーっぽいものとか、なんかご飯とおかずをごちゃまぜにした感じのがあって、適当くさくておいしかった。懐かしい。
全然関係ないですが去年の夏に行ったブール・カン・ブレスの旧市街。年の四分の一くらいは発症する旅に出たい病。

2015/07/19

そうめん~主題とその変奏~デザート付

 今日はさすがに暑すぎて、休日としてはマッハで学校に避難して研究にいそしんでいるが(今は食休み中)、昨日はまだ凌げるくらいだったので、台風のために持ち帰っていた資料とそのまま家で過ごしていた。
 昼はそうめん。
 安いし、すぐに茹で上がるから火をつける時間が最小限で済み、食べやすいので、1人暮らしの夏の昼はそうめんが大活躍です(大家族だったらゆでるだけで重労働だろうが)。
 めんつゆにつけて食べるだけでもおいしいし、玉ねぎのすりおろしとか入れてもおいしい。ここしばらくのお気に入りは、薄めに溶いてかけつゆにしてしまって、その上に野菜のおかずをどんっというもの。お浸し、胡麻和え、ナムルの類は間違いがないし、茄子とか小松菜とかを甘辛く炒め煮にした奴だったり、ラタトゥイユ風のものだったり、バジルとトマトのマリネを乗っけたこともある。要は残りおかずを、さっぱりしたものならそのまま、肉が入ってたり油っこかったらちょっと温めてもよくて、なんでもアリ、anything goesでございます。昨日などは、デラックスにも飽きてきたので、初心に戻ってつけだれで、めんつゆに辛みネギ油を入れた。青ネギを荒い微塵にしてごま油とコチュジャンと一緒に混ぜる。お好きだったらお酢も少し。野菜の素揚げとかざく切りトマトも合いそう。今後の課題としては、ナンプラーを巧く使えるようになりたいと思っている。前に居酒屋のようなところでトムヤンクン焼きそばというものを食べて大層おいしかったので、あんな感じのものをそうめんを使って一瞬で作れたら夏も結構悪くないのではないか。
 それとは別に、実家から救援物資として届いたメロンを昨日(!いまだ!)と思って冷蔵庫に入れて、今朝食べたら、どうやら完璧なタイミングだったようで、あまりに官能的に美味しくてすっかり幸せな気分になったところ。なんでも、一番おいしい時に一番おいしいところを一番おいしく食べたいという、誰が相手というわけではないが確実にこれもひとつの戦いを生きていて、だからメロンなんていう難しくて取り返しのつかない果物のおいしいところを捕まえられたときには、してやったり、と頬がゆるむってもんである。

2015/07/17

嵐の只中に ―私たちはもっとわがままにならなければ―

 高音で電線を鳴らしながら風が吹いている。

 小さいころの私は、自分でもはっきりと覚えているくらいに大きな音が苦手だった。暴風や雷の時、工事車両や除雪車がゆっくりと家の前で作業をしているときなど、感覚的な恐怖に、泣いたりとかもしたんじゃないだろうか。それで、母の発案だろうか、そんな時には我々姉妹はジグソーパズルで遊ぶことになっていた。外の世界で起こっていることは何一つこの小さな家の中の平和を乱すことはないのだから、耳を澄ませなければ、観なければ大丈夫。気を紛らわせるには、パズルは最適だった。
 大きな音に対する感覚的な恐怖を克服したのは、これもはっきりと覚えているのだけれど、小学三年の冬に吹奏楽を始めた時だ。トロンボーンのすぐ後ろはティンパニやシンバルで、轟音が腹に来る。反射的に身を縮め耳をふさぎそうになるところを、少しずつ抵抗を解いて、その音を体に浸した。寒い日に外に出るときに少しずつ呼吸を合わせて冷たさを全身に感じながら体を慣らす要領で。その合奏の間に腹に響く轟音は心地の良いものになった。
 自分が大きな音を発することへの抵抗はその後も続く。中庸の美意識、というとそれなりに素敵だが単なる怖がりなのか、声を挙げたり音をだしたり食べたり遊んだりしゃべったり噛みついたり、といったいちいちを、思いっきりやるところに行く手前で躊躇して手加減しまう。何度も、その時々に出会った人や物事を通して、思いっきり出していいんだよ、ということが腑に落ちて、リミッターを外せる、ということがあって、その度にすごい解放感を味わってきた。時間が経つと忘れてしまうので、たびたび自分でも、外していいよ、と言ってやらなければならない。

 実は授業準備も論文書きもしなければならないけれど、台風の夜にはあんまりにあらゆる方向が嵐なので、こんなことを思い出してみたりしていた。

 気が付いたら大きくも小さくもすっかり乱世である。どこでも、責任と権力を持っている人や組織が、自分の周りのごく狭い利害ばかり考えて身勝手な決断を下すのがなんでか許容されていて(それに飽き足らずより大きな力を求めたりするが、まともに使えやすまい)、その反面、下っ端の我々や市井の人たちが(なんでか)(どこにあるのかしらない)「全体」や「集団」の利益を尊重して行動することを強要される。私たちはもっとわがままにならなければ。

 歴史やファンタジーで一番わくわくするのは、乱世を乱世と、敵を敵と認識して、今まで見えなかったり目をそらしていたその敵に立ち向かう場面だ。その先には、決裂や停滞もあるけど、自分や仲間の成長なんかもあったりして、何より、身体を縮めないで状況を肌で感じながら、力をフル稼働させることそれ自体が愉快だ。自分の考えで、状況に立ち向かえることの自由。

 そんなんで、ここ何日か各地で行われている運動の様子を写真などで見てると、近くにいたら加わってみたかった。それに関連して…。

 【再掲】「パリのデモから考える」
 國分功一郎さんという方のブログの記事で、パリのデモが、いかにだらだらと秩序なくごみをまき散らしながら進んで行くかが楽しげに書いてあるのですけど、ちょっと引用。
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「デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しようとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。
 パリのデモでそれぞれの人間がそんなことを思っているということではない。多くの人はなんとなく集まっているだけである。だが、彼らが集まってそこを行進しているという事実そのものが、そういうメッセージを発せずにはおかないのだ。」
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で、政府は、デモの権利を認めることでそれを無理やり体制の中に、秩序の下に組み入れるわけだが、デモンストレーション、示威行為というのは、その性質としては大人しく収まっているようなものではないわけ。きちんと問題を理解した人が、ゴミなんか拾っちゃって整然とコールしながら歩いたりなんかしなくていい。群衆が目に見えて出現することが一つの力なのだから。で、どうこれを使うか。という話。正直全部きっちり理解できたか怪しい部分もあるけど大変に面白かった。

 ついでにもう一つ、最近ちょくちょく訪れている正体は知らない男性のブログ記事である。
「ギリシャ経済危機を見て考えたこと」ーガメ・オベールの日本語練習帳
 これは、冴えてセンチメンタルな自由についての話。引用。
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「人間の自由に価値があるのは、その「自由」が共同体の価値を脅かすときに限られる。
社会の生存が脅威にさらされないような自由は実はただの思想的な自由にしかすぎなくて、個人の「わがまま」と共同体の利益が相反するときにのみ「自由」は真の価値、本来の性質、言葉の真実を個々の人間に向かって問いかけはじめる。」
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 あるいは、この方が別の場所で使っていた「魂に染みついた自由」(ちょっとあやふや)という言葉。
 これが多分、たまに私を使いにくく思う方がいたら「だから外国かぶれは…」と毒づきたくなるものの正体かもしれないし、フランスにかぶれるずっと前から、多分小学校のある担任や中学校のある担任の先生を苛立たせたものとも通じるのだろうと思ったりする。


 わがままに生きていきたいし、納得出来ないことをやりたくないので、「汝の意志の格率が、常に同時に、 普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」みたいなことも考える。
 コレって、みんなのことを考えておとなしくしていなさい、というのんとは違うよね。
 ただまあ、面倒になってそんなのぜーんぶ、糞喰らいあそばせ、な気分になることもままある。


 風に吹かれて支離滅裂に。