クストリッツァにくらっときている私の80%くらいはあの「ジプシー」の音楽に参っているんだという自覚はあるんだけど、さまよう人の音楽といえば、初めて聴いた時から波長が合ったのがユダヤの伝統的な音楽をジャズにアレンジするジョン・ゾーンのマサダ室内アンサンブルの作品(こんなん)。独特の悲哀を帯びた和声で展開するメロディに、なぜか呼吸が楽になる。盛り上がるやつも楽しいけれど(こんなんとか)、愉快一辺倒ではなく、むしろ少し落ち気味の時に、悲しくなりすぎないように、疲れすぎないように、そうっとそばにいて支えてくれるような感じだ。
これを教えてくれたヒッピーっ気のある友人に誘われて、パリの北郊外のサン・ドニにある60年代風の工業製品チックな公会堂にライヴを聴きに行ったことがある。パリ市内ではあまりみない(ひょっとして全然ない?)レーニン通りなんていう道を通って、休憩時間は大統領選の話をして、帰りには東駅の前にある24時間営業の昔ながらのカフェのカウンターにもたれかかりながらビールを飲み、山ほどフライドポテトの乗っかったクロックムッシュを食べた。深夜の東駅や北駅周辺には、どこから来たのか、どこへ行くのかよくわからない人達が大勢たむろしていて、零時をまわる頃には、早朝の電車に乗るつもりで宿を取っていないバックパッカーが、駅を追い出されたのかカフェにぽつぽつと入ってきて奥に消えていく。ビール二杯くらいとともに、こういう若者が奥のソファ席に横になって夜明けまでの数時間を過ごすことを店主は黙認しているのだそうだ。流れ者だらけの深夜の東駅前で食べた夜食が、ニューヨークを拠点として世界中で流浪の民の音楽を聞かせるライヴと記憶の中では切り離しがたく結びついている。
思えば昔から遊牧民や山の民、海賊は憧れの対象だった。住所や組織、国境みたいな枠を超えて移動して生きることの自由さ。自分は、家を追い出されたら寒さにも暑さにも耐えられないし、自分の食べるものひとつ調達することもできない。だから余計に自分や一行の面倒を見てなんとかしてしまえる、という事が魅力的に思えるのだろう。辺境だから、真ん中からちょっとはみ出したり追われたりしてきた人が身を隠したり、真ん中の人には堪える制裁が下ってもけろっとしていたりする。海や川で暮らす人々。中華に対する周縁の夷狄。アルプスでは、山の人間がたまに里に下りてきて里の娘さんが恋をしてしまったりするのだと、ブローデルが『地中海』の入門編で書いていた。
先日、Throwing a Spoonというピアノとチェロのデュオの演奏会を聴いた。これもシンプルなメロディで肌を透過してしみてゆくような音楽だ(こちらでいくつかは聞くことが出来る)。ピアノなんていう数学的でメカニカルで複雑な楽器を、あんなにして、風で木の葉が揺れるかのように自然に、人間に寄り添うように歌わせるトウヤマタケオさんは本当に凄い。徳澤青弦さんのささやき声の下で泣いているようなチェロはもういろっぽすぎる。幅広いテイストの演目があったけれど、中の一曲の単調すぎるぐらい単調な響きで、またしても乾いた中央アジアの草原への郷愁をどうにもこうにも抑えられなくなってしまった。曲名はSophia。動物の毛のにおいとかしてきそうで、いったこともない場所なのに、こんなにも懐かしいって本当にどういうことなの。だから遊牧民の若き首領よ早くわたしを攫え。そんなことを口の中でつぶやく。
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