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2017/10/30

買って読んで積んどいて買って読んで読んで書く

 面白そうな本を買って、すぐ読むのかというと手元にあることに安心してしまってなかなか読み始めない。読み始めたと思ったらまた昔読んで途中でおいてあった本の方が気になってきて、そちらの続きを読み始める。そのうちに、当初読んでいた本のことはすっかり忘れて新たに気になる本を書店で発見してしまう。
 近頃の私ときたら一事が万事まで行かなくても三十事くらいはそんな感じで、手元の本をある程度消化するまでは新たに購入するのを控えようなどという、殊勝なことを考えたりもしたのだけど、それで残念ながら読むスピードが上がるわけではなく、仕事のペース配分に向上が見られることもなく、むしろなにかしら澱んでる気がしたりする始末。
 結局、ここ何十年か出る出る詐欺だった本の翻訳を、先週末にお小遣いから買ってしまったら、却ってすっきりした。

 どういうことなんだ、とも思うのだけど、ふと、さっき人参を切っているときに思い出したのが、夏頃に話題になった「無限音階(シェパードトーン)」のことだ。クリストファー・ノーランが『ダンケルク』(未見)の冒頭で効果的に使っているという、どことなくめまいを伴った不吉な予感を喚起する音響効果である。
 実際には複雑な和音が徐々に音程を上げ、上の音が上がるのと同時に下に和音が追加され、いつの間にか一番上の音が消えているのだが、聴き手には果てしなく音が上昇を続けるように感じられる。聴いたほうがすぐピンとくるので、こちらのリンクを是非(クリストファー・ノーラン監督が多用する、不安を煽る耳の錯覚効果「無限音階(シェパードトーン)」)。
 
 それを思い出した私は、人参を細切りしているところで、いつものように色紙上に薄切りした人参の程よい量を垂直に積み重ねて包丁を入れるのではなく、薄切り人参をドミノ倒しを倒した時の要領で横倒しにしてみた。そして、そのまま上から平行移動しながら斜めに積み重なった人参を切断していく。
 ……私って天才じゃないだろうか。こうすると、人参を積み重ねて揃える手間もなく、揃えた人参が切っている間にずれるのを気にすることもなく、切っていくうちにジェンガの終盤のように頼りなくなる人参の薄切りの壁を押さえるのに気をもんだり血を流したりすることもなく、延々人参の細切りの生産が出来るのである。
 これこそは、そう、無限人参…。
 
 と果てしなく話がそれたのだが、近頃どうにもこうにも自分の気持ちの上で整理がつくのを待たずに仕事やら何やら始めるだけでなく終わらせなければいけないことが続いていて、何となく自分が状況をコントロール出来ていないような気がしてご不満だったのだった。でなければ積読の肥大化くらいでは罪悪感をおぼえたりはしないはずである。しかしまあ、無限人参は、可能であるのみならず、言ってしまえば快感だ。一つ一つきちんと処理して終わらせて、というのではない本とか仕事とかの付き合い方というのを、流されて不本意に、ではなく、意識的に好意的にやってみて、そこから得るものを得ようとするというのもアリではないかと思ったもので、久しぶりの今日はそういう話。

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