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2016/04/24

ハッピーアワー


特に決まった予定がない土曜、駅前にある街でたった一つのシネマの、街でたった一つのスクリーンに、続けて濱口竜介監督『ハッピーアワー』(2015年、日本)がかかるという。
映画「ハッピーアワー」公式サイト

 即興演技ワークショップみたいのんに集まったほとんど素人の主演女優さん四人がロカルノ映画祭というところで賞を取ったので話題になった、317分の大作。不明にして監督のことは知らず、邦画、五時間強、「ほとんど素人」などなど、あらゆるネガティヴな情報にもかかわらず(私は凹凸の豊かな顔とプロの仕事を二時間チョイきっかり楽しみたい主義だ、普段は)、さる尊敬する物語の目利きの方が絶賛してらしたのを思い出したりしたこともあって、ふらふらっと行ってみたのだった。

 5時間17分という常識外れの尺を、「短かった」とか「あっという間だった」とかいう人はちょっと足腰強すぎか前の日に焼肉とかで気合入れてたんだろうと思う。
 5時間17分、かなり肩凝ったし、腰痛くならないように結構もそもそ動いたし、二回の休憩はがっつりトイレ行ったし、一度は頭がエネルギー切れ起こしてお祭りの屋台までコロッケを買いに走った。心身ともにかなり消耗した。それでもなお、もっと観ていたいと思ったし、素人目にみても、この長さは無駄じゃあなかった思う。完成度は非常に高くて(部分的に少しご都合主義的だと思ったところはあったけれど)、私の知っている「映画」というのとは大分違っているけれど、あの空間だからこそ体験できたものだったように思う。その後で、偶然にもその日劇場に来ていた才女たちとカレーとビールであーだこーだとしゃべくれたのもよかった。ココロの方にはかなりガツンと来るやつだったから、一人で帰ったら随分と悶々としていただろうと思う。

 音楽が美しくて、背景の神戸の街も、それぞれの舞台となるおうちとか建物も意味をもって生きているので細部に注目するほど楽しくて、四人の主役の女性たちは成程素晴らしくて、というかどんどん魅力的になっていった。
 それ以上に、人との距離の取り方や、もう少し大きい括りで言うならコミュニケーションのモードが、人それぞれにささやかだったり決定的であったり違う、その違い方が時が経つにつれて明るみになる仕方が鮮やかだった。そうして抉り出される、尊重し合う事と分かりあう事のバランスのギリギリさ、ひいては人と関わることの難しさがリアルだった。

 「隠し事は嫌い(腹の底隠さないで話そう)」「ここでは触れ合う事でわかりあおう」・・・そう口に出すことは、一見フェアなのだが、それによって、その場で「ただしいこと」と「間違っている」ことが形作られるような権力的な動作でもある。言われた側は、違和感がもしあっても、その言葉で成立してしまった善悪のモードの中で、その違和感を抱え続けることになる。こういう一種の暴力の構造(これは、しゃべりたくない側が先に声を出した場合「自分はこういうコミュニケーションしかできない(だから察してほしい、わかれ)」になる)は、私が長い間すごく身近に考えてきたことだったりする。全てモードと正否が定められた裁判という場所との対比もあって、その不当さや、でもそれが崩れた時の(違和感を抱えながら黙っている人もまた声をあげはじめたときとか)どうにもならなさが身に染みた。
 感覚や印象を言葉にするという点でも、それが巧みな人、全然な人、むしろきれいな言葉で蓋しちゃう人、などなど色々なスタンスの取り方が登場していて、それぞれに、何らかの(たいていは不当に思えるようなきっかけで)そのモードの変換を迫られていくようなところも面白かった。(でも結局のところほとんど変わることが出来ないので、出来ることといったら「似合わないことをする」くらい、というのも説得力ある。)
 
 ちなみに、予告編では四人の親友たちの関係性やそれぞれの生活が、その一人である「純」の衝撃的な告白から大きく変貌していく…というプロットが採用されているが、ひとりの「ジョーカー」がその日常に闖入してきたことによって…みたいな予告編(というか、あらすじ?)も作れそう。。。とか思ってしまった。
 まあ、こんな事を言ってはなんだけど、どうにもこうにも分かっていない、ずれてる男性キャラクターたちがいちいち「あるある」すぎるので、女子諸君は、そこそこ可愛いけど絶望的に鈍いとこのないでもない恋人とかよりは、才気あふれる友人とかと観るのが盛り上がるのではないか。


これは自家製リモンチェッロ。

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