Pages

2017/01/22

記録と記憶

 今年の目標の一つとして、観た映画やDVD、読んだ本(漫画も)、訪れた町や展覧会、なんなら面白い言い回しとか、などなどの記録を取ろうと思っている。あわよくばレビューも書きたいという下心もあるし、そこまで見解として定着していない、メモみたいな記録の仕方の方がいいかもしれない。自分の書いたものは記憶を強烈に方向づけてしまうので、下手に読み手を意識した文章にしてしまうのはもったいないかもしれない。レビューアーならきちんと言葉で焼き付けて定着させることは不可欠だけれど、ふわっと変わりうる印象のまま経験を蓄えられるのはアマチュアの特権では?しかし私はいったいこれらの分野でどの程度アマチュアでいられるものか…。いずれにせよ、昔は、もっと一つの作品に出会ったあとの印象を長く日常に引きずっていたように思うけれど、最近は切り替えがうまくなったのか、変にさっぱりしてしまったのか、他の仕事で頭をいっぱいにしているうちに、記憶の格納庫の隅にふっとばされて存在さえ忘れかけてしまうのである。ところが、そのまま全く別のことをしている時に、何かの拍子に「思い出すべきことがある」ことに気付く。思い出し方はその時ごとに異なり、まさにその瞬間に、カレーうどんの匂いみたいに他の可能性を許さずにほとんど暴力的と言っていいくらいの現実性を伴ってなだれ込んできて充満して目の前の現実さえ霞ませるときもあり、反対に、細い細い山芋を掘り起こすようにして、丁寧に周りの雑音を剥がしていかないと、手がかりがぽっきりと折れて、何が欲しかったのか全くわからなくなってしまうこともある。このプロセス自体はまあ、存外面白いんだけど(特にいい感じの山芋が綺麗に掘れたりすると!)偶然に任せすぎている。つまり、本来自由に使えるはずの過去の経験が、まるでひらめきや思いつきのように不確かなものになってしまっている点でとても不便だ。自分が関わりを持ったことなのに忘れてしまうのは無責任でもある。霧の中で歩いていた道が消えるようにして、過去の出来事をぽろぽろと忘れていくような話、一人で部屋で読んでいたら怖くなって、そのまま途中で読むのをとめてしまっているのがあった。カズオ・イシグロの、歴史っぽい長編、続きを近々読もう。いずれにせよ、限られた時間の中で折角選び取って観たり読んだり訪問したりしたものだもの、現在からアクセスして使えるようにするのは悪くない。しかも、そこに行けばきちんと手がかりが得られるということが分かっていれば、いつか山芋に当たるかもしれない畑を引っ提げて歩く必要もなく、身軽だ。(と、基本的に用事やそのための準備事項を手帳に書き込むと同時に忘れてしまうのに慣れた結果、手帳に書くまでもないようなことでぽろぽろと忘れ物をしてしまう、例えば二週間前から切らしている黒胡椒の粒のレフィルだ…今さっき付箋に書き込んで財布に貼っておいたから今度は大丈夫なはず)。
 一月の三分の二が過ぎてしまって、何もしていないわけではないから記録していないタイトルが増えて少し重たくなってきた。書いて次にいかないと。と、こういう感覚の由々しい問題点は、動きの悪いコンピュータのモデルで頭の中を考えていることで、せめてもう少しスマートなタイプの類推で扱ってやらないとそちらもポンコツになってしまいそう。いっそ少し情報のシステムの勉強もしてみたいと思う。
 『溺れるナイフ』(山戸結希監督 2016年)を観たので、一応今年初めて劇場でみた映画ということになるのもあって何か書いておこうかと考えているうちに、「何か書いておこう」がメインになってしまった。

No comments:

Post a Comment