…read more以降はネタバレがあるかも。
「この世界の片隅に」を隣町で観てきた。
本当に画が綺麗で、つくりが丁寧で、噂に違わず主演の声の同調が半端じゃない。他の人の感想から期待値は相当上がっていたけど、心から素晴らしいと思ったし、随分と泣かされてしまった。そしてまた、ひどく残酷な映画だという感想をもった。
ここに描かれていた残酷さは、ただ失い続けることじゃない。というより、失い続けながらも、失わずにすんだものや新たに得られたものとともにあるときに、亡霊のように失わずに済んだかもしれない選択肢がついて回ってくることだ。何も選び取ったようには思えない道であっても、実は何かを捨てて何かを選んでいるのであり、意識的にでも無意識的にでもいずれかの道を選ばされているのであり、「ひとつ違えばこうだったかもしれない」が延々と積み重なっていく。失われたものを懸命に繕おうとして、それでも埋め切れない隙間からあちこちに、他でありえた世界へのほころびを垣間見ながら、人々は「よかった選択」の方をみて明るく日常を守ろうとしていて、その哀しさはやりきれない。
アニメっていうのは、主観的な光景を表すのにすごく強いのだろうと思う。
手に届く範囲のもの、今日、明日、明後日の食事、会って話をする範囲の人。
遠い記憶はすでに、ちょっとかすれている。
この作品では、若くて、大分ぼーっとした女の子の、そんな感じにごくごく身近な世界の日々が、いとおしむように丁寧に描かれている。
この「手の届く世界」の感じ、「片隅感」とでもいおうか、これはすごい。電車で通るときには「鎧窓を閉めるように」という指示が出るような、呉の軍港や工業地帯が、お嫁入りしたお家からははるばると見渡せて、絵も描いちゃう、けど、市井の皆にとっては、その情報は笑っちゃうくらいなににもならない。戦艦大和もなんかスゴイものとして目の前に堂々としている。けれど、後でこの艦が海上にいるところを撮影されたことを示唆する映像が入り、その後沈められたことが伝えられるように、その所在が軍事機密でもある。
それくらいの視野の中では、空襲の見え方も異様にリアルで、すぐ近くに降ってくる重たく速い瓦礫のつぶてのようなものと、地面にめりこんで埋まった砲弾のあとと、壊れた家がずっしりと存在感を持っているのに対し、空中を飛ぶ戦闘機と迎え撃つ砲弾は、絵の中のように現実感がない。(その分というかなんというか、連日の空襲、警報と避難という緊張にさらされてみんなが疲弊していく様子には、映画の中と思えない説得力があった)。
「風立ちぬ」は、やはり主人公に視野狭窄を与えることで(最初の「近眼」の景色は強烈だ)、だからこそ生み出される奇跡のような美しさを描いたものという一面があると思う。でも、「風立ちぬ」が大傑作であるという点に完全に同意しつつも、ジローの「見えてなさ」がなんとも言えずに私を苛立たせる(あなたならもっと「見えて」いるべきだったでしょう、と)のに対して、「この世界の片隅に」のすずさんの小さな世界は、ひたすらになんか、リアルで、やるせない。
割合とひどいことが束になって起こるのに、何が怖いって悪い人が出てこないのだ。それもまた、すずさんの観た世界という制限の中だからだろう。彼女は、慣れない環境で朝から晩まで家事をしているところに義姉である母子が闖入したストレスを、たぶん整理して認識したり対処したりしないでいるうちにハゲをこしらえてしまうような子だ。逆に、義姉の径子さんから見たら、同じ町の人も全然違う見え方をするんじゃないか。あるいは周作から見たら。(周作はすずを選び取り、それを最良の選択と言ってのけるけれど、すずの幼馴染の訪問のあたりはあれ、なかなか複雑だ。)径子さんはすずさんと逆に、一つ一つ自分の選択をしてきた人であり、だからこそ、その一つ一つがことごとくうまくいかないことの責任を自分で意識的になんとか引き受けようとしている。その強さが現れるのが、8月6日朝の会話であり、それに対して、すずさんの方も「ここに居続ける」という選択をすることで、自分なりの別の強さを見つけだす、んだろうか。でも、やっぱり彼女は、自分がもし「祭り」までに親元に帰っていたなら、と考え続けるのかな。そして、ほころびを埋めるように、右手をつないだから助かったみなしごを引き取るんだろう。
人間が引き起こした大惨事に、人間が落とした災厄にあって、運命を呪うしかないのは、間違っている、と思ってしまう。けど、この片隅だけの世界では、人災も天災も、あらわれかたとしてほとんど同じなのに、ほかにどんなやり方があるというのだろう、ともまた思う。明日も明後日もその次も、日常は続いていくのだから。だって、パスカル先生よ、宇宙が人間を滅ぼそうとするときに、私にはそのことが分かっている自信がないよ。
「この世界の片隅に」を隣町で観てきた。
本当に画が綺麗で、つくりが丁寧で、噂に違わず主演の声の同調が半端じゃない。他の人の感想から期待値は相当上がっていたけど、心から素晴らしいと思ったし、随分と泣かされてしまった。そしてまた、ひどく残酷な映画だという感想をもった。
ここに描かれていた残酷さは、ただ失い続けることじゃない。というより、失い続けながらも、失わずにすんだものや新たに得られたものとともにあるときに、亡霊のように失わずに済んだかもしれない選択肢がついて回ってくることだ。何も選び取ったようには思えない道であっても、実は何かを捨てて何かを選んでいるのであり、意識的にでも無意識的にでもいずれかの道を選ばされているのであり、「ひとつ違えばこうだったかもしれない」が延々と積み重なっていく。失われたものを懸命に繕おうとして、それでも埋め切れない隙間からあちこちに、他でありえた世界へのほころびを垣間見ながら、人々は「よかった選択」の方をみて明るく日常を守ろうとしていて、その哀しさはやりきれない。
アニメっていうのは、主観的な光景を表すのにすごく強いのだろうと思う。
手に届く範囲のもの、今日、明日、明後日の食事、会って話をする範囲の人。
遠い記憶はすでに、ちょっとかすれている。
この作品では、若くて、大分ぼーっとした女の子の、そんな感じにごくごく身近な世界の日々が、いとおしむように丁寧に描かれている。
この「手の届く世界」の感じ、「片隅感」とでもいおうか、これはすごい。電車で通るときには「鎧窓を閉めるように」という指示が出るような、呉の軍港や工業地帯が、お嫁入りしたお家からははるばると見渡せて、絵も描いちゃう、けど、市井の皆にとっては、その情報は笑っちゃうくらいなににもならない。戦艦大和もなんかスゴイものとして目の前に堂々としている。けれど、後でこの艦が海上にいるところを撮影されたことを示唆する映像が入り、その後沈められたことが伝えられるように、その所在が軍事機密でもある。
それくらいの視野の中では、空襲の見え方も異様にリアルで、すぐ近くに降ってくる重たく速い瓦礫のつぶてのようなものと、地面にめりこんで埋まった砲弾のあとと、壊れた家がずっしりと存在感を持っているのに対し、空中を飛ぶ戦闘機と迎え撃つ砲弾は、絵の中のように現実感がない。(その分というかなんというか、連日の空襲、警報と避難という緊張にさらされてみんなが疲弊していく様子には、映画の中と思えない説得力があった)。
「風立ちぬ」は、やはり主人公に視野狭窄を与えることで(最初の「近眼」の景色は強烈だ)、だからこそ生み出される奇跡のような美しさを描いたものという一面があると思う。でも、「風立ちぬ」が大傑作であるという点に完全に同意しつつも、ジローの「見えてなさ」がなんとも言えずに私を苛立たせる(あなたならもっと「見えて」いるべきだったでしょう、と)のに対して、「この世界の片隅に」のすずさんの小さな世界は、ひたすらになんか、リアルで、やるせない。
割合とひどいことが束になって起こるのに、何が怖いって悪い人が出てこないのだ。それもまた、すずさんの観た世界という制限の中だからだろう。彼女は、慣れない環境で朝から晩まで家事をしているところに義姉である母子が闖入したストレスを、たぶん整理して認識したり対処したりしないでいるうちにハゲをこしらえてしまうような子だ。逆に、義姉の径子さんから見たら、同じ町の人も全然違う見え方をするんじゃないか。あるいは周作から見たら。(周作はすずを選び取り、それを最良の選択と言ってのけるけれど、すずの幼馴染の訪問のあたりはあれ、なかなか複雑だ。)径子さんはすずさんと逆に、一つ一つ自分の選択をしてきた人であり、だからこそ、その一つ一つがことごとくうまくいかないことの責任を自分で意識的になんとか引き受けようとしている。その強さが現れるのが、8月6日朝の会話であり、それに対して、すずさんの方も「ここに居続ける」という選択をすることで、自分なりの別の強さを見つけだす、んだろうか。でも、やっぱり彼女は、自分がもし「祭り」までに親元に帰っていたなら、と考え続けるのかな。そして、ほころびを埋めるように、右手をつないだから助かったみなしごを引き取るんだろう。
人間が引き起こした大惨事に、人間が落とした災厄にあって、運命を呪うしかないのは、間違っている、と思ってしまう。けど、この片隅だけの世界では、人災も天災も、あらわれかたとしてほとんど同じなのに、ほかにどんなやり方があるというのだろう、ともまた思う。明日も明後日もその次も、日常は続いていくのだから。だって、パスカル先生よ、宇宙が人間を滅ぼそうとするときに、私にはそのことが分かっている自信がないよ。
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